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荷物の第一弾を運び入れようと、まだキーホルダーも何も付いていない鍵を慣れない手つきで捻る。玄関を開けるとそのまま奥にある部屋が見え、それと同時に1人の男性と目が合った。男性は玄関からの直線上に、あぐらと体育座りの間のような座り方をしていた。
恐怖で声が出なかったのは一瞬で、私は、「ヒロトだ」と思った。
ヒロトは大人気の現役アイドルだった。アイドルという言葉を私はあまり好まないので、アーティストという言葉を使おうと思う。バンドでデビューした後、ソロに転身。激しいダンスをしながら甘い歌唱力を披露する。俳優もモデルもやる今1番話題のアーティスト。私より1歳下の、24歳。
ヒロトは微笑んで「おかえり」と私に言った。
「ただいま」
ついそう言ってしまうに決まっているじゃない。恐怖?知らない。大好きな彼が私を迎えてくれているのだから。ああ、カッコいい。なにこれ、ドキドキする。ふふふ。
私は吸い込まれるように部屋へ向かった。荷物の第一陣は全て玄関に崩れ落ちた。
「手伝うよ」
ヒロトが立ち上がると、私より30cm近く身長差があった。カッコ良過ぎる。私はヒロトに近づくと、顔から目が離せなかった。どうしてそんなにバランスよく目や鼻が付いているのかしら。どうしてそんなに肌が綺麗で、歯並びが良いのかしら。
ボーッとしている私を見て、ヒロトが笑う。
「疲れてるね。俺残りの荷物やるから、少し休んでいて」
頭をポンと叩かれる。ふわりと香る彼の匂い。優しい感触。私は振り返って彼の背中も余すことなく目に写す。彼の全てを見ていたい。彼の全てを感じたい。
玄関にばら撒かれていた第一陣の荷物を跨ぎながら、落ちていた軍手を拾い彼は出ていった。玄関のドアがガチャリと閉まった。
ああ、ああ、幸せ。ヒロトが出ていき戻ってくる部屋。それが私の部屋。二人の部屋。
「ピンポーン」
まだほとんど物がない部屋に、玄関のチャイムが鳴り響く。機械的で傲慢な音だ。
「ピンポーン」
もう一度鳴った。ヒロトが帰ってきた。そう考えると先程よりたかがチャイムも愛の鐘に聞こえる。ああ、なんて幸せなの。嬉しい。ヒロト、ヒロト、ヒロト。
私は恍惚としながらゆっくりと玄関のドアへ近づいた。真っ直ぐ、そこにヒロトの顔を透視するように真っ直ぐドアを見つめた。ドアノブに手をかけ、開ける。
そこにはヒロトの顔ではなく、見知らぬ中年男性の顔が2つあった。
「真城朋美さんですね。松山広斗さんからストーカーの被害届が出ています。心当たり、ありますよね?彼の自宅、どうやって調べたの?近所に引越しまでして••••••ちなみに昨日から彼はもう別の場所に住んでるからね。さて、署でお話しを伺えますか?」
ヒロトが持っていったはずの軍手は玄関に投げ出されたままだった。
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