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それから再び記入を再開すると予想より没入していたのか、気が付いたら日が傾いていた。下校時刻が過ぎてしまう。慌てて出来上がった日誌を片手に廊下を走る。幸い誰にも目撃されることはなくお咎めなしで職員室へ到着した。日誌を確認した教師は助かったと感謝を述べたが、
「ん? そいや朝香はどうした」
この場にいない女生徒を不思議に思ったようだ。その質問にわたしは肩が跳ねそうになったが、即座に答えた。
「実は用事があったらしくて急いで帰りました。なんでもどうしても外せない急用だったらしくて!」
上手く笑えているか分からなかったが、わたしは後頭部をさすりながらそう答えると教師は「そうかそりゃ悪いことをしたな……」と己を省みているようだった。実際は友だちと帰りたくて先に帰ったわけだが、下校ギリギリで日誌を頼んだ教師のほうにも責任はある。妥当な判断だろう。
すると教師から「もう帰っていいぞ」と言われたので、挨拶をしてから立ち去った。昇降口で靴を履き替え、外に出る。やけに部活動の声がしなくて静かだなと思いながら校門をくぐった。
辺りはどっぷりと日が沈んでいた。細い道を進み、信号のない横断歩道を渡ってゆくと土手や神社などを通過する。終始狭く見通しが悪い道を通るので、毎回気を付けて家に帰らなければならない。車や自転車はもちろん最近は通り魔も出たらしい。物騒な時代だなと思いつつ歩を進めると、ある建物が視界に入った。それを見て危ない忘れるところだったと踵を返す。
そう、それは病院だった。わたしの母は入院している。別に何かが悪いってわけじゃない。ただ疲れやすい体質らしく、何もせずとも常人より体力を消耗してしまうと医者は言っていた。一定数世の中にはそういう人がいて原因は分かっていないらしい。入院しているが異常があるわけじゃないので安心だが、それからは最低週一は見舞いに顔を出していた。
「あら、みやちゃんじゃない! 今日もお母さんのお見舞い? 相変わらず偉いわね」
ロビーに足を運ぶと、受付の人から声がかかる。この人はわたしのおばさんである。この病院で長く勤めているらしく、今年で二十五年目とか。
「いえ、週一くらいですから!」
「充分よ!あの子も喜ぶわー!きっとすぐ元気になっちゃうんだから」
そんな冗談を交えながら手続きをしてくれたが、病室まで案内しようとしたので止めた。
「もう何回も行ってるんで大丈夫ですよ?」
「いいのよ私が息抜きしたいだけ!ほら行った行ったー!」
背中を叩かれ、歩を急かされる。一階に降りてきた荷物を運んでいた業者と入れ替わりでエレベーターに入った。
「にしても…大きくなったわね。みやちゃん小さいときはこーんなに小さかったのに!」
「毎週会ってるのに今更何言ってるんですか。そりゃそんな小さいときに比べれば大きくはなりましたけど…」
狭いエレベーターのなか、おばさんは突如として切り出した。といっても会うたびにこの手の話題は出るので慣れたものだが。こーんなにと言って、腰に満たない位置に手を当てて笑っている。
「それくらいからかしら……あの子が入院してるのは」
「えっと…多分そうだと思います。少なくともわたしが小学校にいるときには入院してましたから」
そう呟いたおばさんはしみじみとパネルを見ている。そう思うと母の入院歴も長いものだ。小学校のときにはもう既に入院していたということは、ざっと計算しても約十年近くはここにいることになる。わたしの人生の半分以上もの時間を病室で過ごしているのだ。
「そんな小さかったなら覚えてなくて当然よね~。でもそう……長くなるのね」
改めて実感したような声にかぶせて、ピコーンと到着を報せるベルが鳴り響く。
「さて行きましょ!お母さんもきっと待ってるわ」
そう言ってボタンを押すおばさんは打って変わり溌剌な笑顔で見つめる。腕を引っ張られるままにエレベーターを降りたが、再び閉まる際にベルの音が響いた。その明るい音はこの場の空気には場違いな能天気なものに思えた。
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