6人が本棚に入れています
本棚に追加
◇
病室に入るとベッドから起き上がる母が見えた。おばさんは仕事が入ったんだろう、またねと私にひとこと残して下の階へ消えていった。
「あら! みやじゃない!今日は来ない日じゃなかった?」
「何となく気が向いたから来てみた!邪魔なら帰るけどーー」
「邪魔なわけないじゃない。愛する我が子なんだから!」
嬉しそうに歓迎した母にわたしも明るい笑みを浮かべて椅子に座る。それからいつも通り他愛もない話をした。
「そういえば学校はどう?友だちとは仲良くできてる?」
色々身の回りの話で盛り上がり、ー段落した空気になった頃。母は落ち着いた様子で話しかけてきた。自分からあまり学校の話をすることはなかった。それに気づいたから聞いてきたのか。高校二年生であるわたしは特に決まった友だちがいるわけでもないが、平穏な日常を送れている。
「…うん、大丈夫!上手くやれてるよ」
心配するようなことなどない。特に何事もなく上手くやれている。そう心から思って出た言葉。それを聞いた母は「そっか」と述べて、
「だってこんなに明るいみやだもん!大丈夫よね!」
と言って、髪が乱れるくらい頭をさすられた。よしよしとペットを撫でるように触れる様子からは入院する人間には見えない。明るさが有り余ってるのは母さんの方だと思いながら、胸の奥で何かが痛むのが分かった。
それからひとしきり喋った後、今度こそ帰ることになった。またねと別れを告げてロビーに戻る。すると帰り際、おばさんからお菓子の箱をもらった。なんでも職場の人が旅行先で買ってきた手土産らしい。一旦は断ったが、最終的に「この年になるとお菓子よりもお煎餅とかしょっぱいものが好きなのよ」と言ったおばさんのご厚意に甘えた。
「こんなにあるなら母さんにも分ければよかったな」
一人でこの量のお菓子を消費できるか不安になる。何だったら母に渡してから帰ればよかった。今から戻るにはもう遅い時間だから明日にでも渡しに行こう。そう思って、今度こそ帰路につく。周囲には誰もいない。夜遅い時間とはいえ、学生はもう家に帰っているのだろうか。辺りを見渡しながら進むと、急に声を掛けられた。
「あれ…それって高木屋の紙ふうせん?」
はっとする。こんな人通りのない夜に声を掛けてくる人なんて、もしかして不審者なんじゃ。戦々恐々とした気持ちでわたしは思わず身構える。怖いもの見たさで振り返るが、予想は外れた。
「うわっ、やっぱり紙袋にも高木屋って書いてある!あそこ兼六園の近くで売ってるやつじゃん!」
紙袋を覗き込む不審者は、藍色の色彩の頭髪に、翡翠色の瞳、そしてファッション誌から切り取ったような抜群のスタイルの持ち主だった。横髪に流れる暗めの桃色のメッシュを銀色のピンで纏めており、片耳にはピアスを控えめに嵌めている。それだけ見ると少しチャラさを感じさせる容姿だが自然と違和感はない。手足も同じ人類とは思えないほど嘘のように細長く、黒いジャケットを羽織る姿はそれだけでも群衆から際立ちそうだが、精悍な顔立ちと飄々とした素振りのせいで全く俗っぽい感じがしないのだ。芸能人などに疎い自分も思わず、目が離せなくなりそうな魅力があった。
「えっと…ご存じなんですか?」
だが、だからといって信用に値するかは別物だ。普通見知らぬ人間に、自分の知っているお菓子を手に持っていたという理由だけで話しかけるだろうか。少なくともわたしは話しかけないし話したいとも思わない。いやもしかしたら人生を賭けるくらい好きなものならそういうこともあるのかもしれないが、でもやっぱりこの人はどこか変だ。初対面の人に対して距離感がおかしいし、長身でピアスをしている男性だ。もしかしてヤのつく人かもしれない。警戒心の滲ませた声で返し、一歩下がる。男はこちらの様子に気づいていないのか、不思議そうな顔で話し続けた。
「え、逆に知らないの?結構有名だと思ってたんだけど、高木屋の紙ふうせん。お菓子で有名なあの金沢名物だぜ? 」
知りませんときっぱり言い返せれば、どれだけいいだろう。金沢名物なんて言われても、一度も旅行したことなどないし、知っているのが当たり前に言われても困る。
「ごめんなさい…これ今日貰った頂き物なので」
なんで自分が謝ってるんだろう。それも知らない人相手に。苦笑してぎゅっと持ち手を握り締めると、次の瞬間には男の頭部が目の前にあった。え、と思わず声をあげると男は衝撃の行動に出た。
「うんやっぱ美味いわ、高木屋の紙ふうせん。久々に食べたけど懐かしさが止んねぇ~!」
「えっ!?」
紙袋を見下ろすと、さっきまで入っていた箱がない。さっと視線を目の前に向けると、包装を外した菓子をもぐもぐと咀嚼している男。その手には箱が握られていた。
「ちょっと何してるんですか!知らない人の持ち物を取るなんて!」
やっぱりこの人マトモじゃない。絶対不審者だ。見知らぬ人の持ってる菓子を奪って食べるなんて有り得ない。「この窃盗犯!」と思わず非難しながら急いで男の手から箱を奪い返した。目の前の男の神経を疑わずにはいられない。しかし、男は意に介さずニヤリと口元を上げた。
「何って、そりゃあーー…」
男がそう口にした瞬間だった。周囲に影が差した。わたしは雨かと思って空を見上げた途端、身体が宙に浮いた。
『ドガァァンッッ!』
まるで雷鳴のように強烈な音が一面に轟き、気づくとわたしは男に抱えられていた。ふわりとした浮遊感に頭が混乱していると、俵担ぎの体勢からそっと地面に降ろされる。立ち上がり目の前の光景を見ると、わたしは思わず愕然とした。
先ほどまで私たちのいた場所がピンポイントで崩壊していたからだ。
「一体何が……」
思わず声が揺れる。突然大きな音がしたと思えば、コンクリートが抉れて、さっき自分たちがいた場所だけ窪んでしまった。重機か何かで削ったような、いや隕石か何かが落下してきたような光景だ。思わず周囲を見渡すが、一面暗闇に染まっていた。
「建物が黒くなってる……?」
コンクリートの地面は見えるのに、そこから生えるすべての建物が影に塗りつぶされたように真っ黒だ。今は春だ。夜だからとはいえ、こんなに見えなくなるはずがない。それに黒い壁面には所どころ赤黒い筋が這っている。時間帯の問題とかそういう理屈で片づけられる問題ではないことが伺えた。
「やっぱお前見えないヤツか」
そばにいた男はそう笑って前に立つ。
見えない? 一体何が……?
「まあいーや。一応下がっておけよ。どうせすぐに終わるだろうけど、説明なら後ですっからさ」
トントンと足を数回地に叩きつけた。そして瞬きのうちに男は消えた。今度は声も出せなかった。
消えた男は空中で何かを蹴り上げ、地面に叩きつける動作をした。そして殴る、蹴る、殴る。速い、あまりに速すぎる。目にも追えないくらいだが、かろうじて数回それを繰り返したのが見え、その後何かを呟いた。その瞬間、
先ほどとは比にならなくらいの激震が走った。大気が揺れるどころではない。
災害だ。地殻から大地が真っ二つに割れてしまったのではないかと思うほどの衝撃。少し離れたこの場所でもすさまじい余波が届き、荒ぶる風が吹きつけた。
もしあの男の言われた通りに下がらなければ、吹き飛ばされていただろう。ぞっと顔から血の気が引いた。
「もう出てくればーー?」
こちらを呼ぶ男性の声が聞こえたが、動かない。目の前で起きた現象にただ頭が真っ白になり、足は木々の根のようにコンクリートに縛り付けられてしまった。
「…出てきて良いっつってんのに。あれもしかしてぎっくり腰にでもなった?ったく…しゃーねーなー」
それを言うなら「ぎっくり腰」ではなく、「腰が抜けた」状態ではと思ったが、いつの間にか男は目と鼻の先に移動してきていた。
「はいお待たせ。で、大丈夫か?」
「何がですか…」
「え…?そりゃ腰とか」
「いやどう見てもわたし今立ってる状態ですよね!?腰痛めてたら無理ですから!」
一体目の前の男はわたしが何歳に見えているのか。「いいツッコミじゃん」とか感心している男に思わずため息が出る。
最初のコメントを投稿しよう!