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翌日、夢うつつの状態で登校したわたしは授業中もずっと考えていた。かの男が話した“魔”について、そして自らの母がその“魔”のせいで苦しんでいたことを。
わたしにはあれから“魔”が取り憑いている。男が言うには“魔”ではなく怨霊の類らしいが、ずっとそれはわたしのそばをついてきた。
料理をするために台所に立つときも、学校に行く道すがらも、果てはトイレに行く時も決して離れない。自分の背後をプカプカとクラゲのように漂っていた。
まだ恐怖はある。でも一晩とはいえこれだけ近くにいる時間が多ければそれは必然的に薄れた。ぼーっと黒板を見て考えている間にも、そのわたしを呪っている怨霊はそばにいる。
一体、“魔”とはなんなのだろう。やっぱりあの男のでっち上げた嘘話なのではないか。
コンクリートが抉られたあれも本当は別の何かで、人為的なもので起きた事件かもしれない。あの男の自作自演の線も捨てきれない。だってわたしは今隣にいるこれしか見ていないのだから。
延々とそれらを繰り返していたからか、いつの間にか授業は終わり下校の時間となってしまった。わたしはいつもより覚束ない足取りで教室から出る。思考はずっと昨日のことで占められていた。しかし体は習慣を覚えているもので、いつ校門を抜けた記憶もないのに病院のある大通りについていた。
「そうだ…!そういえば昨日のお菓子、母さんにおそそわけするんだった!」
はっとしてすぐさま院内に入る。そしていつも通り元気な母の様子に安心しながらも、菓子を渡して再び道へ出る。今日は面会時間ギリギリまで話してしまった。おそらく昨日の出来事で精神的にストレスが溜まっていたのだろう。でも気分転換にはなった。疲れていた脳がリセットされたような感じだ。まあ時々視界に入る怨霊が気にはなったけど。
るんるんとした軽快な足取りで暗い道を歩くと我が家が見えた。さてあとは曲がって家に入るだけーー
「よう昨日ぶり」
「ウワーーーッ!?」
石塀を曲がった途端、突如現れた人物に目が飛び出る。思わず絶叫した先には昨日見た男の姿があった。
「なっ、なんでここにあなたがいるんですかっ…!?ここわたしの家ですよ!?!」
「仕事だよ仕事。近くに用事があったからついでにな」
「仕事…? いやそもそもわたし名前も教えてないですよ…?なんでここの住所知ってるんですか!!?」
家の前に立つ名前も知らない男。
教えてもいない相手の住所を知ってるとか鳥肌ものである。もうなんなの。この人超怖い。昨日のお菓子を奪って食べたこともそうだし警察呼んだほうがいいんじゃないかな。
だって絶対おかしい。いくら近くに用事があるとはいえ家の前にいるはずがない。むしろそこで待機する意味などないはずだ。そんなの待ち伏せしてたとしか思えない。もしかして昨日の夜尾行された……? だとしたらやっぱりこの人不審者だ。
「おっ!なら名前知ってればいいのか。表 雷馬(おもて らいま)。これで文句ねーだろ?」
「いやそういうことじゃなくて………」
何を勘違いしてるのかトチ狂った回答が返ってきた。名乗れば住所を知ってもいいとは言っていない。もはや呆れて突っ込む気すら湧かなかった。
「まあそんなことは置いておいて。
で、決まった?」
「……は?」
表と名乗った男はふざけた調子で問いかけてくる。脈絡もない質問に思わず問い返してしまった。というかこっちの質問はスルーかい!
「だから昨日の話。腹くくるって言ってたじゃん。まだ決まってねぇの?」
「…へ?」
昨日の話と言えば、時間がほしいと頼んだ話だろう。まさかその返事を聞きに待ち伏せしていたのか。まだ一日しか経っていないというのに。
「ちょっ、まだ昨日の今日ですよ?! さすがに早すぎませんか?!」
「ああ何、まだ決まってないの?」
「あっ、当たり前です!そんな急に決められるわけないじゃないですか……!」
昨日の今日でそんなこと受け入れられるわけがない。今まで魔なんて見たことも聞いたこともなかったのだ。そんな衝撃的なことが一日で受け止められてたまるか。
「ん?何だ?」
ピリリ、と近くで何かが鳴る音。さっきまで興味無さそうに聞き流していた表も反応した。これは携帯の着信音だろうか。表はすぐさまポケットを漁り、それを取り出した。しかし音はすぐ消えた。おそらくはメールだったのだろう。男は画面を一読し、
「薫林高校か。どうやらまたそこで“魔”が出たらしい。この感じだとこの間起きた不審火の正体かもな」
「私の学校で“魔”が………?」
ごくりと唾を飲む。
「お前もついて来いよ。夜の社会科見学といこうぜ」
ぐっと腕を掴まれる。いきなりの行動に「ちょっと!」と制止をかけた途端、表は走り出した。その勢いの強さに振り払うことも引き留めることもできない。ただただ夜の街を駆けて行く。
拒否する間もなかった。今はもう九時を回っている。こんな時間に学校へ侵入したとなればただでは済まないだろう。なのにそんな事情も知らぬ顔で表は走っていた。はぁはぁと息が切れてきた頃、ついに足が止まった。学校の前に到着したらしい。表は軽々と門を飛び越えて、こちらを急かしている。不安を隠せない表情で表を見やった。
「本当に入って大丈夫なんですか…? 夜ですし、それにお兄さん、部外者じゃないですか…」
「俺が大丈夫って言ったら大丈夫なんだよ。ホラ見つからないうちにさっさと入れ」
こちらに手を伸ばす表に不安を感じつつも、わたしは周囲に人がいないのを確認して手を取る。何とか彼の助けを借りて校門を越えることができた。
「うわぁ…真っ暗。これぞ夜の学校の醍醐味って感じだな」
「………」
校舎に入るといつもとは違う暗闇が広がっていた。足元も見えないような暗さだったが、幸い光源がないわけじゃない。消火栓のボックスで光る赤いランプと非常口の看板の光を頼りにわたしたちは進んでいた。
「どうだ?いつも過ごしている校舎の雰囲気は」
「そうですね…。いつも夕方の学校までしか見ないので、少し違った雰囲気はします……」
夜の校舎内で怖がる様子はない。むしろ楽しそうに表は話しかけてくる。その口ぶりはここに来た目的なんて忘れてるんじゃと心配になるほどだ。
「本当にここに“魔”がいるんですか…?いつもここにいても何も見えないのに」
いつも授業を受けてても“魔”は見かけない。今日だってもしかして“魔”が出るんじゃないかと思ったけど、結局自分の近くをぷかぷかするこの怨霊だけだった。
「“魔”は夜行性なんだよ。学校にいる日中に“魔”を見ないのは、奴らにとって生きづらいからだ。太陽の傾きにしたがって日中は陽の気が、夜は陰の気が高まる。そのせいで奴らは昼は行動しずらく、夜のほうが活発に動けるってわけだ」
「でも、この怨霊は昼夜関係なくいますけど…?」
未だ後をついてくる怨霊。わたしは指を差しながらそう聞くが、ため息を吐いた表は「やめとけ」と言って、指していた指を下させた。
「そいつは別物。強力な瘴気を持った“魔”は瘴気の膜を張って日中でも自らを守ることができる。外部からの陽の気が流れ込むのを抑え込めるってわけ。まあコーティングみたいなもんだな。だから昼でもそのままでいられるのさ」
「つまりハイブリッド型ってわけですか……すごいですね」
「お前、ハイブリッド型って…センスあんなぁ…」
純粋にこの怨霊のすごさに感心していると、四階へと差し掛かった。ここが屋上を除いて階段で行ける最上階になる。
「やっぱりここにはいないんじゃないですか?“魔”なんて……」
学年の教室もないし、もうここまで来たらいないだろう。
周囲を見渡しながら言うと「まあ黙ってろって」という発言に一蹴されてしまう。それに黙り込むしかなくなり、再び静寂が訪れる。それから順々と視聴覚室、音楽室、理科室、図書室と通り過ぎてゆくと端まで着いた。なーんだいないじゃないか。そう落胆にも似た安堵が出ると、表は
「下がれ!!」
鋭く叫んだ。その瞬間、甲高い破裂音とともに爆風が吹きつける。すぐさま後ろに下がると、硝煙のような匂いが鼻をついた。もくもくと周囲に煙が広がっていく。見渡すと見慣れた壁面が再び黒く染まり、点々と散らばる血の筋が視界に入った。
さっきまでと暗さはそこまで変わらない。なのにその所々に散らばる赤が不吉な印象をもたらしていた。
つぅっ、と一筋の汗が米神から落ちる。廊下の中腹部にまでわたしたちが下がると煙の動きは止まった。煙越しに何かの影が見える。
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