カタルシスのかなたに

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 一筋の風が窓から吹き付けて、桜の花びらと共にひらひらとカーテンが攫われる。教室は喧騒で包まれていた。女生徒たちが友達と楽しそうに話す笑い声、つかみ合う男子生徒の軽い罵声。平穏でどこか空虚な日常。そのなかで一人の少女が窓の外の光景を見つめていた。 春休み明けで久しぶりに見た校庭は砂利の間から草が生え、風が吹くたびに揺れる芝生が広がっていた。もとよりこの辺は都心から外れた自然の多い土地だ。つい先日この学校では不審な事件があったらしく、そのせいで手入れが滞ってしまったのだろう。しかし草花が生い茂げる校庭は少女にとってむしろ心地よく感じるものであった。頬を撫でる風を味わっているとガラガラと軽い音を立てる。扉から入ってきた教師が、起立と掛け声をかけ、それが合図となったようにホームルームが始まった。 ◇ 「今日は8日かー。じゃあ日直は大江、お前だな。日誌を出してから帰れよー」 授業が終わり、生徒たちは霧散していく。自分も帰ろうと少女も学生鞄を抱えて、教卓を通ったときだった。名指しされたわたしは、足を止める。 「あの、もう一人の人はどうしますか? ほとんど帰っちゃいましたけど……」 日直は毎日二人ずつの交代制で、日誌も二人で分担して書く箇所がある。辺りを見渡しても教室内には誰も残っていない。教師に引き留められている間に帰ってしまったようだ。 「あー少し待っててくれ」 教師はそう言うと廊下に身を乗り出す。そして誰かの苗字らしき言葉を叫ぶと、再び戻ってきた。一体なんだと首を傾げていると、外からズカズカと誰かが入ってきた。 「ちょっとー!もう帰ろうとしてたのに引き留めないでよセンセー!?」 「あーすまん。伝えるのが遅かったな朝香」 肩を怒らせて近づいて来た少女は甲高い声で怒鳴る。カラーコンタクトだろうか、目の色はベージュがかり、ライトブラウンの髪を内側に巻き、薄く化粧もしている。爪には薄い桜色のマニキュアが塗られており、その上には夜空に煌めく星のようにラメが光の反射を受けて輝いていた。 「実は今日日誌を書かなきゃいけないんだが、ほとんどこのクラスのやつら帰っちまってなー。コイツの他に残ってたのがお前だけだったんだ。朝香、代わりにコイツと一緒に日誌書いてくれねえか?」 「…ハァ?なんで私がーー」 女生徒は眉を吊り上げたが、 「日直は原則二人でやるもんだし、さすがに一人でやらせるのは酷だと思ってな。じゃあ頼んだ」 という教師が一方的に告げられた主張にかき消される。そして朝香と呼ばれる女生徒の肩を叩き、教師は扉から立ち去っていた。 「何よアレ……!!」 振り返って扉を見続ける朝香は「ムキー!」と苛立ちをあらわにしたが、隣から見つめられているのに気づいたのか、何よと怪訝な顔をする。なんでもというはっきりしない返事に朝香は椅子を引いた。 「言っとくけど私、自分のとこしか書かないから」 足を大袈裟に組み、日誌をこちらに渡す朝香にたじろぎながらも受け取る。おそらく朝香が言ってるのは最後の感想欄のことだろう。それぞれ日直が一人ずつ、今日あったことや思ったことを好きに書くコーナーだ。明らかにわたしの方の分担が重いが、まあいい。男子だと何も書かないやつなんてザラにいる。書いてくれるだけマシだろうと鞄を机に置き、日誌を記入した。一日を振り返って何があったかと記憶の糸を手繰り寄せて空白を埋めてゆく。すると隣から野次が飛んだ。 「早くしてくんない? 私トモダチ待たせてるからさあー」 早く友達と帰りたい朝香はこちらを急かす。内心めんどくさいなと思ったが、その気持ちを抑える。そして穏やかなふうを装って日誌を彼女に渡した。 「朝香さん…だっけ?まだこっちかかりそうだから先書いていいよ!そうしたら帰れるでしょ? 友だち待たせてるなら行ってあげて」 感想欄だけ書けば朝香さんは帰れるのだ。友だちと早く帰りたいのだろう。自分のせいで朝香さんも朝香さんの友だちにも迷惑をかけている。その申し訳なさからの申し出だった。朝香は好都合と言いたげに日誌を手元からひったくり、乱雑に書き走った。すさまじい勢いで空白を埋めた女生徒は、立ち上がって机の上にそれを放り投げた。 「…あとはよろしく」 そう言って立ち去る朝香の書いた日誌を見ると、急いで書いたからかミミズが這ったような形をしており、何が書かれているのかはよく分からなかった。
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