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齢86歳、眠るようにして人生の幕を閉じた。老人にありがちな病気や怪我もほとんどなく、安らかな眠りについた自分は、闘病生活の末に亡くなった方からしてみればうらやましいかもしれない。
「最後に看取ってくれたのは医師と看護師のみ、分かっちゃいたが本当に天涯孤独の身で終わったねぇ」
てきぱきと自分の遺体が霊安室へ運ばれていくのを醒めた目で見守る。施設の職員が来て簡単なお葬式をしてくれるだろう。生前に用意した遺言書の通りに計らってくれるなら、自分の思い描いたとおりになるはずだ。
自分の亡骸から離れて病院の中を歩き回る。最後の人生を過ごす場所が病院だったが、それでも個室に入れるくらいの資産はあったし、院内にお気に入りの場所もできた。
子どもたち、お年寄り、病院にいる人間と話をするのも、まあ、最後だと思えば悪くなかった。怪我や病気で入院している人間は、誰もかれもが寂しそうな顔をしている。家に帰りたいと駄々をこね、家で死ぬと騒ぐ同年代の人間の話し相手にもなった。
最後だと思えばそれくらいのことしてやってもいいと思えた。
「静江さん」
名前を呼ばれてはっと振り返る。馴染みの看護師の声だった。
なんだいと返事をしかけて、ふと笑った。私はもう死んだのだ。だから、誰からも声をかけられることはない。同姓同名の別の人間を呼んだのだろうと思い直した。
「もうろくしたもんだよ。私も」
「もうろくって、亡くなってるじゃないですか。おかしいですよ」
返事があることに驚いて、よくよく見ると馴染みの看護師は自分の方をひたと見つめている。私は死んだんじゃなかったのだろうか。
「静江さん。そっちに行かないでください」
「何言っているんだい。私は好きな時に、好きな場所へ行くよ」
顔をしかめてお決まりのセリフを繰り返す。病室から出て勝手気ままに歩き回る私を、若い看護士が追いかけ、鷹揚な医師が笑って許すのだ。
「そうですね。静江さんは束縛されるのが大嫌い。だから、いつも一人で行動してましたね。幼いころからずっと」
「そうだね、施設の規律が厳しかったからね。出るまで安心できなくて、出たと思ったら、今度は会社や社会に監視される。とんでもない世界だと思ったよ」
思い出すのは教師や施設職員の厳しい目。私らのような子どもは、世間様から良く思われないから、両親がいて普通に育った子どもよりも、よほどきちんとしなければならないと叱られた。
「それが嫌で起業して、ずいぶん、自由になったのではありませんか?」
この看護師は暇なんだろうか。自分のような死んだ老人にやたらと構う。若い頃ならイライラしたらだろうが、年をとった今なら、それほど嫌じゃやなかった。
「とんでもない。起業して、成功すればしたで、今度は近所や同業者や社会の目が厳しくなったねぇ」
大富豪になったわけでもないのに、資産家の女性だということで雑誌やテレビにも取り上げられた。社会貢献、世界の貧困を救う、地元への還元、稼いだものの義務らしい。自分で稼げるようになるまで、欲しいものは何ひとつもらえなかったというのに。
「ご結婚して、幸せな家庭を築かれていたとか」
「とんでもない。ありゃ、資産目当てだよ。家族、親戚そろって、私みたいな出自の人間にゴマすって、哀れなぐらいだ」
婚姻する前からおかしいと思っていた。市役所に婚姻届けを出す前に、彼の目論見が分かったのだ。
「探偵を雇っておいてよかったねぇ。でないと、骨の髄まで搾り取られていたかもしれない」
幼いころからお金に苦労して、今度は結婚相手のお金に苦労する。そんな散々な人生とんでもない。それなら、一生、孤独でも好きに暮らすのが一番さ。そう悟ったのが28歳の時だった。
「確かにね、家族はもたなかったが、破格の義援金を送ったり、地元の復興に手を貸したり、恵まれない人とやらに寄付をしたりはしたよ。一度も会ったことなんてなかったけどさ」
「代理人を立てたんですってね。自分だって分からないように。メールや手紙、動画も届いていたでしょう?実際に、お会いになったりしなかったのですか?」
「とんでもない。会ったりすれば、もっとお金をくれとふんだくられるだろうよ。慈善事業はしても、私自身が善人じゃないんでね。だから人の良さそうな代理人を立てたんだ。経営がうまくいって、自分に恨みや嫉妬がこないようにするためだよ」
まわりに説得されて、しぶしぶ出すようになったんだ。とてもじゃないけど、慈善とは言えないね。海外文庫で読んだ、ケチな老人よりよっぽど私の方がケチだよ。その老人は確か改心して、お金を使うようになたんだけど、私はごめんだと思ったねぇ。
「善意で行ったことが必ずしも、良い結果を生むとは限らないでしょう。逆に、善意はなくても、結果的に善行につながることはあります」
「おやおや、どこかで聞いたようなセリフだね。看護師さんもずいぶん勉強してるんだねぇ。確かに、善意が必ずしも善行になるとは限らない。私みたいな人間が善行を積んだように思われちゃあ、いたって普通の善意ある人間が迷惑だよ」
自嘲してから、ふと眉をひそめた。馴染みのある看護師だと思っていたが、これほど賢いことをいう人だったろうか。失礼ながら、患者のために奔走する彼女は、まさしく善人でやさしい人だ。だが、まだ若かったため、知識や教養があるとは言えなかった。
看護師だと思って話していた女性の姿が揺らいだ。胸のあいた赤いドレスに、長い茶髪がたれる。派手なネックレスにピアス、ブレスレット、けばけばしく見えるファッションだが、彼女がつけると不思議と品が良く見えた。
「お迎えにあがりました。以前、お世話になった高倉みのりと申します」
「高倉みのり?」
すぐには思い出せなかった。何しろ、起業してから様々な人に会ってきたのだ。忘れている人間の方が多い。
「お客さんとの間にできた赤ちゃんを堕胎した折り、私自身も一緒に命を失いました。ですが、静江さんがお葬式や私の借金の清算、もろもろの手続きをすべて請け負ってくれました。身寄りのない私の代わりに……お忘れですか?」
大輪の薔薇が開くようにして、記憶がよみがえる。行きつけのバーでよく話をしていた女性だ。水商売をしてはいたが、普段から新聞やニュースを読み、本も読んでいたため、エリートの相手をすることが多かった。私自身は学校に通ってはいたが義務教育を終えた後、高校には行っていない。ろくな成績を取っていなかったから無学に等しかった。その私に、丁寧に社会のことや教養、マナーといったものを教えてくれたのだ。
「よせばいいのに、子どもなんかつくっちゃって」
「結局、堕ろしてしまいましたけどね」
「お互い、天涯孤独の身だった。馬が合って嬉しかったんだよ。あんたは、子どもができて嬉しかったんだよね。天涯孤独の身じゃなくなったったって喜んでた」
やさしい気持ちがよみがえる。まだ膨らんでいないお腹に手をあてて笑った。男性の手を借りずに一人で育てるって言ったから、仕事ならうちで紹介すると啖呵を切ったのだ。まだまだ駆け出しで右も左も分からないようなガキンチョだったのにさ。家族になれるんじゃないかって錯覚した。
目元を和らげるとやわらかい花の香りがした。小春日のあかりと肌寒さの残る風が吹く。
「静江さん、一緒に行きましょう」
自然に足が動いた。みのりの差し出す手を取ったら体が軽くなった。ふと、振り返ると、そこはぞっとするような光景が広がっている。真っ暗な闇の中からいくつもの白い手が静江の方にのびている。その手は静江が明るい世界に行くのを嫌がっているようだった。
「私は、あの暗い方へいこうとしていたんだね」
一瞬、みのりの手をふりほどこうとしたが、一度つないだ手を離すまいと必死に私の手を掴む。暗い世界から目をそむけて明るい光の方へ、みのりと一緒に歩く。そこはもう病院じゃなかった。
「静江さん、後悔していたでしょう。婚約者の借金を肩代わりすればよかった、もっとお金を寄付すればよかった、もっと人に関わってくればよかった。そんなことを考えている静江さんに、すがっている人たちですよ。結局、自分じゃ何もしない人たちです」
きっぱり言い切るみのりの背筋はのびている。水商売であっても、品性を失わず胸を張って生きようとする姿に憧れてた。
「どうだろうね。何か変わっていたかもしれないよ」
うつむく私の手をみのりはぐいっと引いた。
「私の時は、昔、お世話になった近所のおばあちゃんが来てくれました。天涯孤独、子どもと一緒に死んだ私に、お迎えなんてこないと思っていたから驚きましたよ。静江さんもそう思ったんでしょう?自分には誰も来ないって」
父母の迎えを喜ぶ同級生が羨ましかった。永遠に手に入らないものだった。みのりと会ったとき、やっと手に入れた気がした。結婚が決まったとき、ようやく訪れたと思った。
「私、先に死んじゃってごめんなさいね」
微笑むみのりにバカ言うんじゃないと涙をこぼした。
「めでたく成仏できたみたいで良かったよ。変な恨み残されたら、生きているこっちはたまんないよ」
ふふっと笑うみのりと笑う内に、どんどん前が眩しくなっていく。もう、孤独ではない。それだけは分かる明るい光だった。
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