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6話
昨夜は本当に何事もなく、約三十分の間、煌士は光波に指一本すら触れなかった。
別れの時間。部屋から出て行く煌士の背中に何か声を掛けたくてたまらない衝動に駆られた光波だったが、結局、引き止める言葉を考える間もなく彼は帰って行った。
その時の悶々とした気持ちを、翌日以降も引き摺ったままでいた。
「煌士様、こんばんは」
煌士が光波に会いに来る日はあらかじめ定められているが、その間隔は一定ではない。今回は前回から二日しか間が空いていない。
玄関前の廊下で恭しく頭を下げて出迎える光波に対して、煌士の挨拶はやはり「あぁ」の一言だけだ。
二日前に煌士の優しさを垣間見たおかげで恐怖心は少し薄まったものの、その威圧感にはまだ慣れない。
子供のように号泣する情けない姿を晒してしまった事もあり、余計に気まずさを感じてしまう。
光波よりも先に部屋に入った煌士は服を脱ぐ事もなく、二人が営みを放棄しているとは知らない使用人が敷いてくれた布団の上に腰を下ろした。
欠伸をする口元を手で覆いながら、掛け布団を下敷きにして寝転がる。
光波は相変わらずどこにいれば良いのか分からず、前回と同じように襖の近くに座した。
心の距離を表しているかのように二人の間に空いた空間が、沈黙の気まずさに拍車をかけた。
「……あ、あの、前回は有り難うございました」
ふと、あの日に煌士から貰った言葉にちゃんと礼を言えていなかった事を思い出し、伝える。
「別にお前の為じゃない。やらなくて済むのなら俺だってそっちの方が楽なんだ」
「えっと……、そっちじゃなくて……、いえ、そちらに関してもとても感謝しているのですが」
「なら何の事だ」
「絶対に違う道が見つかる、って……、言ってくれた事です」
噛み締めるように、煌士の言葉を思い出す。
自分の存在価値は、雅楽代の子を孕む事だけ。
そう言い聞かせられて育った光波にとって、それを否定されるのは衝撃的な出来事だった。そして、否定された事を泣くほど嬉しいと感じた自分に驚愕した。
自覚がなかっただけで、もうずっと昔から、そうやって否定してもらいたかったのかもしれない。
けれど当の煌士は、礼を言われるほどの美言を贈った自覚はないようで、怪訝な顔をしていた。
「煌士様が何とも思っていなくても、僕はとても嬉しかったんです……。このお言葉はずっと大事に致します。有り難うございます」
喜びを反芻し、思わず淡い笑みが浮かぶ。
「……そうか」
煌士は明らかな当惑の間を置いてから、ゆっくりと呟いた。
今までより少しだけ柔らかい音をしたその声は、光波の耳に心地好く響いた。
ここで会話が途切れるのが少し寂しく思えて、煌士が応えてくれそうな話題を頭の中で探る。
「あの、ケイジくんは元気にしてますか?」
「元気すぎるくらいだな」
「ふふ、また会いたいなぁ」
「……毎日ではないが、昼食後に庭で遊んでいる事が多い。会いたいなら勝手に来い」
独り言のように呟いた光波に、煌士が言う。
少し前の光波ならばその言いように萎縮したかもしれない。けれど今は、煌士が本当に冷たく言い放つ時の声色とは違う穏やかさを感じ取れた。
この高慢な喋り方にも段々と慣れて来たらしい。
煌士の威圧感に怯えて言葉を失う事もなく、顔色を窺いながらではあるが会話を続ける事が出来た。
「ケイジくんはオメガが好きなんですか? もしかしてアルファなのかな。あ、でも、犬にもアルファとかオメガとかあるんでしょうか」
「さぁな。でもそのせいで、俺と父さんがケイジの相手をする時は苦労ばかりだ」
両腕を枕にして天井を見上げていた煌士の顔が、わずかに苦々しく歪む。その苦労の日々を思い出しているのだろう。
光波も光波で、煌士が投げたボールを光波の元に持って来たケイジの姿を思い出す。
あの時は焦ったものだが、居丈高な煌士が毎日ケイジに振り回されているのかと想像すると、何だかおかしくて思わず短い笑いが漏れた。
「笑い事じゃない」
そう言って煌士が不満気に顔を背けたものだから、光波は緩んでいた口元を慌てて手で隠した。
「ご、ごめんなさい……」
さすがに無礼が過ぎたかと謝罪する。
「……別に、笑うなとまでは言っていない」
そっぽを向いたままの煌士が、珍しく不器用さを感じさせる口調で呟いた。
怒っているわけではない事が声色から分かって、光波は口元を抑えていた両手を離す。
せっかくの和やかだった雰囲気が押し流され、また気まずい沈黙に部屋が満たされたが、これまでとは違い不穏な空気ではなかった。
恥ずかしいような、くすぐったいような。光波の視線と体が、もじもじと落ち着きなく揺れる。
同じようなタイミングで煌士がぎこちなく寝返りを打ったのも、光波と同じようなむず痒さを感じた故かもしれない。
音も動きもない静止した空間の中を、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
何の前触れもなく煌士が布団から起き上がった事で、滞っていた空気がようやく動いた。
煌士がこの部屋に来てから約三十分。不正を誤魔化せるだけの時間を最低限稼げたのだ。
「あ、煌士様、おかえりですか……」
「あぁ」
立ち上がった煌士に続き、光波も腰を上げる。
「今日も有り難うございました」
「…………」
「煌士様?」
光波の横を通り過ぎようとした煌士が、光波の顔を見て立ち止まる。
煌士の手がふいに掲げられた瞬間、光波の全身はぞわりと粟立ち、目の前が真っ白になった。
そのほんの一瞬の間に、初めて煌士に抱かれた日の恐怖が鮮明によみがえった。忘れかけていた体の痛みまで思い出される。
「……っ、や、やだっ!」
反射的に拒絶の声が出た。自らに迫る手を思わず払い除ける。
ばちんっという、手と手がぶつかる音が響いて、光波は我に返った。
「あ……っ」
寒気が全身に走り、指先が震える。
血の気が引いて真っ白になった顔で、恐る恐る煌士の反応を窺った。
煌士のきりりとした目は大きく見開かれ、弾かれた手は行き場をなくし空を掴んでいた。
怒りや悲しみといった感情は見えず、光波の行動にただただ驚き固まっている。
「ご、ごめんなさい……、僕、ぼーっとしてたから、びっくりして……、あの、ごめんなさい……」
動揺して詰まる声で何度も謝罪を繰り返す。
煌士は持ち上げたままだった腕をゆっくりと下ろすと、ふいと顔を背け部屋の襖を開けた。
「襟が乱れててずっと気になってたから……、直してやろうと思っただけだ」
教えられ、自分の首元を手で探る。煌士の言う通り、シャツの襟先がわずかに反って浮いていた。
「本当に、ごめんなさい……」
「……別に」
煌士は小さくそれだけ言って、部屋を出て行く。
慌てて追いかけようとしたものの、目前で閉められた襖が煌士からの拒絶のように思えて、光波は呆然と立ち尽くした。
(……せっかく、少し仲良くなれた気がしたのに)
項垂れ、そのまま畳に座り込む。
確かに、煌士の第一印象は最悪だった。初めての営みがあんな形になってしまって、ひどいと思う。虚しいと思う。
けれど今はもう煌士の事をそれほど憎いとは思っていない。最初は威圧的で怖かったけれど、そればかりではない事も知った。
だからもう憎んでいない。もう怖くない。
そう、思い込んでいただけなのだろうか……。
煌士に触れられると思ったら、恐ろしくて仕方なかった。
(でも、もっと話してみたかった……)
煌士の事が嫌いなのか、と自問し、でも、と自答する。それに対し、でも、と反論するのもまた自分だ。
己の感情なのに、右に左に激しく揺れて一向に答えが見つからない。
それでも、そんな曖昧の中に後悔の念があるのは確かだった。
光波は抱えた膝に顔を埋め、重たいため息を吐き出した。
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