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1話
過去、男か女でしか区別されていなかった性が、現代では四つに分類されるのが一般的となっている。
精巣と卵巣の両方を有するオメガ男性。
オメガとの交配に適した遺伝子を持つアルファ男性。
オメガにもアルファにも分類されない、人口の大半を占めるベータ男性。
そして、出生数が減少の一途を辿っている女性。
現在の地球の人口を十とした時、男女の比率は男性が八で女性が二になると言われている程に女性は貴重だ。
そんな時代、数少ない女性が別格の扱いをされるのは必然かもしれないが、体格や能力に恵まれやすい傾向にあるアルファも、世間からは特別視されていた。
血の種類だけで優劣を判断するのは軽率だ。それでも、何らかの功績を残し財や名声を手に入れた者に性を尋ねれば、アルファと返って来る事が多い。
アルファに恵まれた家は栄華を極める。
そんな言い伝えを証明するように、アルファばかりが生まれる鶴峯(つるね)家は代々、薬の卸売りを主とした医薬品事業で財を成してきた。
県内一の高級住宅街と言われる場所に建てられた豪奢な一軒家を見れば、鶴峯家の好況が良く見て取れる。
一帯には豪邸と称して誇張ない住宅がいくつも並んでいるが、鶴峯家の広大な住居と比べてしまえば子供の玩具のようにすら見えた。
そんな、誰もが羨む豪邸の車庫から、一台の高級車がゆっくりと発進する。
後部座席の窓から景色を眺めているのは、鶴峯家の一人息子、光波(みなみ)だ。
気持ちの良い秋晴れの空を見上げるその顔は、どんよりと薄暗い。
「あぁ、やっとこの日が来たな」
光波の隣に座っていた男性が、誰に語りかけたわけでもなく、興奮を抑えきれないといった様子で呟いた。
初老の運転手が「大変喜ばしいですね、旦那様」と穏やかな声で応える。
「アルファばかりが生まれるこの家にオメガのお前が生まれた時、親戚中が不吉だなんだと騒いだものだが……。俺だけは、お前がいつか幸福の使者になると信じていた」
自分が話し掛けられているのだと気付き、光波は窓の外に向けていた視線を車内に戻す。
普段、光波に対して険しい表情を見せる事の多い父が、今は優しい眼差しを向けている。
光波はそれに対して笑顔を返そうとするが、頬が引き攣って上手く笑えなかった。
今年十八歳になった光波は男らしさとは無縁の容姿で、下手をすればボーイッシュな少女に間違われる事もあった。
身長は十八歳男性平均の百七十三センチに五センチ以上足りず、男のわりに丸みを帯びた頬と、紫外線の影響を受けにくい質の白い肌が、中性的な印象を強めている。
瞳は大きさも色も丸々と太ったどんくりのようで、目力などあったものではない。
これらの庇護欲を煽るような見た目は、オメガに出現しがちな特徴だ。
他所から嫁いで来た者を除けばアルファばかりの鶴峯家に、オメガとして生まれた光波は異端だった。
不吉だ、何故生んだのか、と、鶴峯の縁者達から責め続けられた母は、我が子諸共鶴峯の姓を捨てて出て行ってしまった。母親の顔を覚える間もないくらい、光波は幼かった。
光波が十八歳になった今でも心無い言葉を投げ付けて来る親類が多い中、そんな戯言に耳も傾けず、箱入り息子と揶揄されるほど大事に育ててくれたのは父だけだ。
けれどだからと言って、可愛がってもらったというわけではない。
大事に育ててくれた。本当にそれだけなのだ。
「いいな、必ず雅楽代(うたしろ)の子供を孕んで来い。それだけがお前の存在価値なんだから」
父は満面の笑みを浮かべていたが、その声はひどく冷たい温度で光波の耳を撫でた。
光波はこれから、顔も知らないアルファに抱かれる。
その為に生きてきた。
◆◆◆
鶴峯家所有の高級車に揺られ、約三時間近く掛けて隣県の山奥までやって来た。
あまり遠出をした事がない光波にとって、三時間の道程は苦痛どころか寧ろ新鮮だったが、何せ隣の席に父親が座っていたのでドライブを楽しむ余裕まではなかった。
右も左も分からない山の中で車から降ろされた時は、これからの不安よりも、父の話し相手から解放された安堵が勝ったほどだ。
(これが、雅楽代のお家……。すごい所……)
車を運転手に任せ、光波は父と二人で築地塀に沿って歩く。どうやら、雅楽代家の居住区を囲っている塀のようだ。
高い塀に阻まれて中の様子は窺えないが、彼方にまで伸びる塀を見れば、この向こうに広大な敷地がある事は容易に想像出来た。
この山丸々ひとつが雅楽代家の所有物なのだと、車の中で父親と運転手が話しているのを聞いた。
栄えた街からは遠く、近くには店もない。民家はちらほらとあるが、住んでいるのは例外無く雅楽代の親類縁者なのだという。
自然豊かな光景くらいしか見所のない不便な立地ではあるが、だからこそこんな常識外れの広さを住居と出来るのかもしれない。
来客用らしい駐車場からすぐの所に立派な数奇屋門が見え、その前で着物姿の中年男性が光波達を待っていた。
「鶴峯様、遠い所を良くいらしてくださいました」
深々と頭を下げられ、光波も慌ててお辞儀を返す。
男性は光波の父親と二言三言やりとりをした後、門を開き敷地の中へと迎え入れてくれた。
門の向こうは光波が想像していたよりもずっと広大だった。秋の色に染まった眩い日本庭園に、圧倒される。
無数に生えた樹木はどれも立派で、艶やかな葉が茂っている。
植物について全く無知の光波でも、それらが大事に手入れされているのであろう事が分かった。
少し離れた所には澄んだ小川が流れており、太鼓橋まで掛かっている。紅葉の色を写す水面には時折鮮やかな鯉の影が見えた。
美しい景色の中にはいくつか家が建っていて、庭というより小さな村だと言われた方がまだ現実味がある。
現実離れした光景を前に、右を見たり左を見たりと落ち着かないのは光波ばかりだ。
父にとっては見慣れた場所なのか、その視線が進行方向から外される事はなかった。
案内人の導きのままに石畳の上を歩いて行くと、やがて二階建ての日本家屋へと辿り着いた。
玄関で靴を脱ぎ、十畳ほどの和室へと通される。
着席を促されたので、用意してあった座布団に父と並んで腰を下ろす。
一枚板の座卓を挟んだ向かい側に、案内をしてくれた男性が静かに端座した。
後から若い男性が部屋に入って来たが、お茶や菓子を手際良く並べるとすぐに出て行った。
縁側の向こうにある鹿威しの軽やかな音が、静かな部屋に心地好く響く。
「お父様の方はご存知かと思いますが、こちらはお客様を迎える為の家屋でございますので、雅楽代の者はおりません。主人達も鶴峯様に会いたがっておりましたが、古くからの仕来りですので、ご挨拶出来ません事をどうかご容赦ください」
やけに人の気配がしない家だと思っていたが、そういう理由だったのかと納得する。これだけ広い敷地ならば、客を迎える為だけに用意された家が建っていても不思議とは思わない。
雅楽代の者と顔を合わせずに済んだ事に関しては、光波にとっては有り難いくらいだ。心の準備をする時間が増えた。
父親の方は、少し不満気な表情を浮かべていたが。
「これより、光波様に務めて頂く”器役(うつわやく)“についてご説明致します」
男性は座卓の上に置かれていたファイルを手に取ると、一枚の紙を取り出し、万年筆と共に光波の前へと差し出した。
紙面の一番上には、契約書と書かれている。
その下に繋がる細かな文字の長文に、これから光波が抱かれる事になる男の名を見つけ、どきりと心臓が跳ねる。
(雅楽代……、煌士(こうじ)さん……)
顔も知らない相手だが、さすがに名前と年齢くらいは父から教えてもらっていた。
年齢は光波の五つ上で、二十三歳のはずだ。
書類の一番下には承諾のサインを求める欄があり、父が早速万年筆を掴む。
しかしペン先が紙に着地する前に、向かいに座る男性が手を差し出してそれを制した。
「こちらは光波様が納得されたうえで、光波様ご自身がご署名ください」
納得出来なければサインしなくても良いのですか、などと、父の前で聞けるわけもなく、光波はぎこちなく頷いた。
雅楽代は、代々占いを生業として富と名声を築いてきた家だ。
占いと言えば胡散臭く感じる者も多いだろうが、雅楽代のそれは限りなく未来予知に近かった。
世界各地に顧客がおり、たった一度の、数十分の占いの為に、数百万の金が動く。
そんな高額な依頼料にも関わらず、予約は常に数年先まで埋まっている。鶴峯家も、先祖代々からの常客だ。
雅楽代の占いはそれほどまでに信頼性が高いのだ。
過去には、専門家さえ予見出来なかった自然災害を予言し、村をひとつ救った事例もあるという。
能力の差はあれど、雅楽代家に生まれる子供には皆、例外無くそのような力が宿っている。その力は加齢と共に失われていき、早ければ三十路の頃には消えてなくなる。
もちろん、現在、雅楽代の末裔である煌士もその力を宿している。
雅楽代家が代々莫大な財産と豊富な人脈を維持し続けていられるのは、この力があってこそだ。
けれどその神がかった力の代償か、雅楽代の血を引く者は総じて妊孕性が弱い。
系図を遡っても、第二子を授かった夫婦はほとんどいないと言われている。
故に、その貴重な能力を途絶えさせないよう、雅楽代の末裔は若くから子作りに励まなければならなかった。
相手役を務めるのは、雅楽代と関係があり、かつ、雅楽代お抱えの医師達が相性を判断した令息令嬢達だ。
光波は、そんな重大なお役目を担う一人に抜擢されたのだった。
孕む側が器役、孕ませる側が種役と呼ばれ、今回の場合は光波が器役で、煌士が種役という事になる。
相手役に選ばれると一ヶ月間雅楽代の預かりとなり、専門家の指示の元に妊娠活動を管理される。
「……いかがですか。器役、引き受けて頂けますか」
数十分に渡る丁寧な説明を終え、雅楽代に仕える男性が光波の意志を確認する。
(……やりたく、ない)
別に処女喪失に乙女のような憧れを持っているわけではないが、だとしても、初対面の相手に問答無用で抱かれるというのは苦痛でしかない。妊娠を前提としているのなら尚更。
ちらりと、父の方に視線を向ける。
嫌なら断っても良い、と、万が一にも父が言ってはくれないだろうかと期待したが、息子をこの日の為に育てて来たと言い切るような人間がそんな事を許すわけがない。
「何をしているんだ。早くサインしなさい」
契約の書類を手元まで引き寄せられ、万年筆を渡される。
光波は震える指で万年筆を握り締め、承諾の意志を示す欄に自ら名前を書き記した。
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