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3話
風呂場の方からシャワーの音がかすかに聞こえて、しばらく後、玄関が開閉する音を最後に煌士の気配は消えた。
その間光波は、乱れた布団の上でぴくりとも体を動かさず呆然としていたのだった。
(まだ……一回目……。あと何回、あったけ……)
この苦行はこれで終わりではない。
これから一ヶ月の間、定期的に今回のような営みを行わなければならない。
泣き濡れた瞳から、再び雫が流れ落ちた。
一瞬、この場から逃げ出す手段を本気で考えたが、雅楽代の家がどれだけ山奥にあるのかを思い出せば諦めざるをえない。
それに、たとえ逃亡に成功して我が家に帰り着いたとしても、光波の父が怒り狂うのは目に見えていた。
逃げ場がない。四方を高い壁に阻まれているようで、絶望的な気持ちになる。
布団に横たわったままどのくらい放心していたのか、大量の脂汗に濡れた体はすっかり冷えていて、寒さを感じるくらいだった。
倦怠感の残る体はとても重たく、起き上がるだけで息が苦しくなった。
「……うっ」
体勢を変えた事で、体内に留まっていた煌士の精液が尻臀の間からつつと流れ出す。
今すぐ、一滴残らず掻き出したい。光波は壁や柱を支えにして、気を抜くと崩れてしまいそうな体でゆっくりと風呂場を目指した。
シャンプーとボディーソープを勿体ないくらい大量に使い、全身から情事の痕跡を洗い流す。
どろどろになっていた体が清められた事で、泥底に沈んでいた気分も少しだけ浮上出来た気がした。
先程の部屋とは違う、光波の荷物が置かれた方の部屋に戻り寝間着に着替える。
煌士との行為に使われた部屋は、翌朝に使用人が片付けにやって来る。
明らかに性交を行ったと分かる部屋を他人に見られるのはいたたまれなかったが、今はもうあの部屋には戻りたくなかった。
ドライヤーで髪を乾かした後、テーブルの上に置きっぱなしになっていたスマートフォンを手に取る。
画面を見てみれば、光波からの報告を待ちきれないのであろう父からの着信がいくつか残っていた。
今は誰とも話をしたくない気分だったが、無視をすれば後で何を言われるか分からない。仕方なく、父の電話番号を選び発信ボタンを押す。
待ち構えていたように一度目のコールで電話が繋がり、疲れ果てた光波の顔にもさすがに苦笑が浮かんだ。
『どうだった?』
父からはもしもしの言葉もなく、第一声がそれだった。
「……ちゃんと、終わりました」
光波の報告を受け、電話の向こうから大袈裟すぎるくらいの安堵のため息が聞こえた。
『……まぁ、しかし、一度で孕むのが難しいのは分かっているからな。やはり妊娠の確率が上がる発情期が勝負だ。しっかりと相手をするんだぞ』
上機嫌な様子で一方的に喋り続ける父の口から、光波の体調を窺う言葉が出て来る気配はない。
『本来ならば俺が雅楽代の血を継ぐ子供をつくっていたんだがな』
また始まった。
光波はうっかり漏れそうになったため息を飲み込み、そうですね、と静かに相槌を返した。
光波の父が、そこまで雅楽代に執着するのには彼なりの理由があった。
およそ二十年前。若くして鶴峯の会社を継いだ光波の父は、先代から代替わりした途端に悪化し始めた業績に悩まされていた。
深刻な状況、とまではいかないが、何代も好調続きだった業績が、トップが代わった途端に落ち込み始めたのだ。無能経営者として非難の対象にされるのは避けられなかった。
そんな時に決まったのが、当時の雅楽代家の末裔を孕ませる為の種役だ。
膨大な財と人脈を持つ雅楽代と深い繋がりが出来れば、鶴峯の会社を立て直す事など造作もない。無能だなんだと責められる事もなくなる。むしろ、一段も二段も高い場所へと行ける。
その日を、いまかいまかと待っていた。
けれどそんな渇望も虚しく、光波の父が種役を務める日はやって来なかった。
当時の雅楽代家の末裔であるオメガが、仕来りとは関係のない所で、仕来りとは関係のないアルファと関係を持ち、煌士を身篭もったのだ。
結局、雅楽代の力が無くとも、周囲の力添えのおかげで鶴峯の会社は持ち直した。年数はかかったものの、事業は波に乗り、今では光波の父を無能と責める者はいなくなった。
けれど彼の中には、屈辱と苦痛に満ちた数年間の記憶が今でも鮮明に残っている。
あの時、雅楽代の種役を務められていれば、必ず孕ませる事が出来たはずだ。そうすれば、あんなに長い年月を苦しまずに済んだのに、と、いまだに憎しみの炎を燃やし続けている。
そのひどく歪んだ復讐を成し遂げる為の道具が、光波だった。
「……あの、お父さんは、どうして子供が欲しいんですか?」
ずっと前から疑問に思っていたのだが、今まで躊躇して聞けずにいた。
けれどここまで事が進んでしまえば、気付かないふりを続けるのは恐ろしい。
幼い頃から雅楽代への不満を呪詛のように聞かされ続けていた光波は、父が雅楽代の血が入った子供を可愛がるとは到底思えなかった。
父は沈黙していて、答えは返ってこないかと光波が諦めかけた時だった。
『……今、どこにいる?』
「え?」
『屋内か?』
「はい……。用意してもらったお家に……」
『外に出ろ。盗聴されてるかもしれないからな』
そんな馬鹿な、と思いつつも、父に急かされ部屋を出た。
体が痛むので遠くまで行く気にはなれない。玄関を出た所で、屋外へ移動した旨を伝える。
『いいか……、雅楽代の血を奪うんだ』
「奪、う……?」
『器役としての務めを終えた後、雅楽代が指定した病院で妊娠検査が行われるのは聞いただろう。そこに古くから交流のある医師がいる。計画への協力を願い出たら、引き受けると言ってくれた』
「け、計画って……」
『検査結果を陰性に書き換えてもらうだけさ』
理不尽な交換条件をいくつも要求されたがな、とおどけて笑う父に、光波は絶句する。
雅楽代から指定される程に信頼を得ているのであろう病院で、そんな事がまかり通るのかと唖然とした。
『雅楽代の直系の子供は予知の能力を授かる。だから、もしお前が生んだそれの力を自由に使えれば、金も権力も思いのままだ』
父は悪気もなく、とても嬉しそうに、自分の孫となる存在を“それ”と呼び“使える”と品定めした。
そのわずかな語りだけで、生まれた子供がどれほど憐れな扱いを受けるか目に見えるようだった。
『あの日、種役を奪われた……、いや、貴重な人生の一部を奪われた屈辱が晴れるわけじゃないが……』
「あの……、ごめんなさい……。今日は疲れたから、もう……」
あまりの狂気に吐き気すら催し始めた光波は、遠慮がちに、けれどこれ以上は話したくないという確固たる気持ちで父の話を遮った。
『ん、あぁ、そうだな。体調を崩して子作りが出来なくなったら大変だ』
機嫌の良い父は、話を中断された事を特に気にした様子はない。
『いいな光波、がっかりさせるなよ。必ず役目を果たして来い』
返事に戸惑う光波を放置したまま、一方的に通話は終わった。
ただ電話をしていただけなのに、崩れ落ちたくなるような疲労感が一気に押し寄せて来た。
ぐったりとした足取りで、自室へと戻る。
スマートフォンを机の上に起き、まだ畳まれたままの布団の上に倒れ込んだ。
「…………子供なんて、ほしくないよ」
切実な本音が、ため息と共に柔らかな布団に吸い込まれていく。
光波は、まだ成人もしていない十八歳。
子供を産み育てるにはまだ少し幼い。加えて、好きでもない相手の子供となれば余計に気が進まなかった。
父の異常な計画を聞かされた今は、尚更激しい忌避感に苛まれる。
重たい体を傾け、ころりと寝返りを打つ。
ふと、今年の三月に共に高校を卒業した同級生達の姿が瞼裏に浮かんだ。
卒業直前に器役が決まって鬱々としていた光波とは違い、同級生達は皆晴れやかな顔で卒業していった。
妬みにも近い羨望が、体の奥から湧き上がってくる。
彼らは今頃、大学生活を満喫しているのだろうか。一足先に就職した者達は、忙しくも充実した毎日を送っているのだろうか。
同じ年頃の男子達と比べると大分過保護気味に育った光波は、彼らが当たり前に暮らしている自由な世界をほとんど知らない。
光波にとってがんじがらめの生活は当たり前だったが、だからと言って、納得しているわけではなかった。
「僕って……、何の為に生まれて来たのかな……」
お前は雅楽代の子供を孕む為に生まれて来たんだ、と、父の声が頭の中に反響して、光波はたまらず耳を塞いだ。
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