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4話
翌日。昨夜の乱暴な性交の余韻がまだ残っていたが、部屋に閉じこもっていても気が滅入るばかりなので、光波は雅楽代家の庭を散歩してみる事にした。
建物への立ち入りと、敷地の外へ出る事は禁止されているが、庭を歩くだけならば怒られはしない。
使用人が運んで来てくれた昼食を残さず頂いた後、少し緊張しながらも外に出た。
雲ひとつない快晴に、思わず目を細める。時折強く吹き付ける風は少し冷たい。
赤や黄色に染まった葉が舞い落ちてきて、地面に色鮮やかな絨毯をつくっていた。
鶴峯の家では、外出をする際には第三者の同伴が絶対だった。
知らない場所を一人で歩く。光波にとって、生まれて初めての体験と言っても過言ではなかった。
こんな状況でなければ、喜びのあまり力尽きるまで駆け回っていたかもしれない。
けれど自由にして良いと言われれば逆にどうしたら良いか分からず、光波はどこを目指すでもなくふらふらと歩き始めた。
無限に広がっているようにすら見える雅楽代家の庭には、気になる物ばかりある。
池の中の鯉の模様が面白い。あそこの木にぶら下がっているのは何の実だろう。
光波は気を引かれる度に歩みを止め、じっくりと観察する。
この調子では今日一日で庭を回りきるのは無理かもしれないと自分でも気付き、思わず苦笑した。
(でも、一ヶ月もあるんだし)
ここに滞在する日数を思い出せば、喜びと憂いが同時に溢れて複雑な気持ちになる。
その後もゆったりとしたペースで散策を続けていると、爪先に何かがぶつかって視線を下げる。
「…………?」
ボールだ。手のひら大のボールが、光波に蹴られてコロコロと転がって行った。
ボールを手に取り、持ち主を探すべく周囲を見回す。
すると、わんっ、という低くも響きの良い鳴き声を発しながら、木の影から白い巨体が飛び出して来た。
「……うわっ! い、犬!?」
ドドドド、と、地響きが聞こえそうな勢いで走って来た犬が、見事な跳躍で光波に飛びかかった。
立ち上がった状態だと、光波とほとんど真っ直ぐに視線がぶつかるほどに大きい。
そんな巨体を受け止める事が出来ず、光波は地面の上に尻もちを付いた。
もふもふとした真っ白な体が覆いかぶさって来て息苦しい。抵抗しようと伸ばした手が、柔らかな被毛に埋まる。
犬どころか動物の知識が乏しい光波は、今自分を襲っている犬がグレート・ピレニーズという犬種だとは分からない。
「ケイジ、危ないだろ」
下敷きになり身動きが取れずにいた光波の耳に、聞き覚えのある声が届いた。
ようやく犬が離れてくれて、顔を上げてみれば。
「こ……、煌士様……っ」
衣服や髪を整えながら慌てて立ち上がり、突然目の前に現れた煌士に深々と頭を下げる。
昨晩の記憶が蘇ってきて、背中にじわりと汗が滲んだ。
煌士は光波の目前まで来たものの、ちらと横目に見ただけですぐに下方へと視線を逸らした。
煌士の足元には、光波に襲いかかった犬が行儀良く座っている。
光波を見つめながら興奮気味な息遣いをしているものの、再び飛びついてくるような気配はない。
どうやら、煌士の飼い犬だったようだ。
「……昨夜は、その、お相手をして頂き有り難うございました……」
喉を絞めるような沈黙に耐えられず、何も考えずに組み立てた言葉をとにかく吐き出した。
咄嗟とはいえ、自分でも触れたくないような話題を出してしまった事を光波はすぐに後悔した。
「心にも思っていない事を言うな」
煌士にとっても快くない話題だったようで、冷たい声が返って来る。
「申し訳、ございません……」
そう謝罪した直後に、光波は再び自分の愚かさを悔いた。
これでは、心にも思っていない事だと肯定する事になる。
けれど今更「そんな事ありません」と否定するのも不自然で、結局、光波は口を噤むしかなかった。
「……ボール」
「え?」
「ボールを返せ。ケイジの物だ」
「あっ」
煌士に言われ、自分がまだボールを握り締めていた事を思い出す。
良く見ると、ボールにはケイジと名前が書いてあった。
「も、申し訳ございません……」
別に盗もうとしたわけでもないのに、反射的に謝罪の声を発してしまう。
煌士に恐る恐るとボールを返すが、彼の口から感謝の言葉は出て来ない。別に、期待していたわけではないけれど。
煌士と向かい合っている時間が長くなればなるほど、息苦しくなっていく。
煌士の手に渡ったボールを見つめるケイジだけが、どんよりとした空気など気にもせずに楽しそうにしている。
それで遊んでくれ、と言わんばかりに、ボールを持つ煌士の手に何度も鼻を擦り寄せていた。
「……取って来い」
静かな命令と共に、煌士がボールを放り投げる。
ケイジの瞳が一際眩しく輝いたかと思うと、物凄い速さで駆け出して行った。
地面で弾んだボールを捕らえたケイジは、スキップをするような軽い足取りでこちらへと戻って来る。
そこまでは微笑ましい気持ちで眺めていられたものの、ケイジは何故か煌士には目もくれず、光波の前に嬉々としてボールを差し出した。
「……えっ!? ち、違うよっ、僕じゃないっ、僕に持って来るんじゃないよ……っ」
やんわりとケイジの体を押して煌士の方へ向かわせようとするが、地面にどしりと腰を下ろした巨体はぴくりともしなかった。
それどころか、早く受け取ってくれと言わんばかりに手のひらに鼻先を押し付けられ慌てる。
これでは飼い主である煌士の面目が丸潰れだ。
光波が悪いわけではないのだが、焦らずにはいられない。
「良い。貰ってやれ」
押して引いての攻防を続けていると、煌士が横からため息混じりに口を挟んで来た。
相変わらず冷ややかな声音ではあるが、怒っているという雰囲気ではない。
「う……、じゃ、じゃあ……。有り難うね、えっと、ケイジくん……?」
冷や汗の滲む手で、ケイジが咥えていたボールを受け取る。
それをおずおずと煌士に返した所でようやく、ボールに釣られたケイジが正しい主人の元へと移動した。
「……お前は本当に、昔からオメガ贔屓だな」
主人よりも初対面の余所者を優先したケイジの事を、煌士は責めない。
どころか、彼の声は光波に向けられていた時よりもずっと優しく柔らかい。
「そんなにオメガが好きなら、お前が種役をしてくれれば良いのにな」
煌士はケイジの顔や体を両手で撫で回しながら、唇をわずかに笑ませて呟く。
すぐ隣に器役の自分がいるのに嫌味のつもりかと、光波は思わず眉間に力を込めた。
けれど、ケイジの頭を撫でる煌士の横顔に侮蔑の色は一切見られない。
それよりも、見ているこちらが寂しくなるような心細さに何故か胸が切なくなった。
(……もしかして煌士様も、種役なんてやりたくないのかな)
光波と同じで、逆らえないから従っているだけなのだろうか。そんな気がした。
しかし本心を尋ねる勇気はなく、光波はただ、飼い主とその愛犬の他愛もない戯れを黙って眺めていた。
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