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5話
二度目の営みの日がやって来た。初日から数えて四日後の事だ。
夕飯も湯浴みもとっくに済ませた光波は、上下紺色の寝間着姿で煌士の到着を待っていた。
今までの器役は玄関で待っていたのに、という煌士の嫌味を鮮明に覚えていたので、今回はちゃんと玄関で待機している。
予定の時刻を待たずに、玄関戸の磨りガラスに複数の人影が浮かんだ。
ノックもなく扉が開かれ、白いTシャツに灰色のカーディガンを羽織った煌士が姿を現した。
付き添いの使用人は、主が無事に器役の元に辿り着いたのを見届けると、深々とお辞儀をして静かに扉を閉めた。
「こ、こんばんは」
緊張を顕わに頭を下げる光波に、煌士は「あぁ」とだけ呟いて、営みを行う部屋へさっさと移動してしまった。
相変わらずの不遜な態度にさすがにムッとしながらも、初日の雰囲気に比べれば幾分かマシに感じる。光波は急いで煌士の後を追う。
「煌士様、待ってくださいっ。煌士様にお願いがあって」
部屋に入るなり服を脱ぎ始めた煌士を、光波は慌てて制止した。
カーディガンとTシャツを脱ぎ捨てた半裸の状態の煌士が、光波の方を振り返る。
光波がお願いの内容を伝える前から、既に不機嫌そうな面持ちだ。
「この前も言っただろ。さっさと済ませたいんだ」
威圧的な声に押し負かされそうになったが、何とか踏み止まり、強ばった唇を開く。
「あの、その事なんですが、子作りをしない、というのは、不可能なのでしょうか」
「……お前は何を言ってるんだ」
突拍子もない質問をぶつけられ、煌士は更に怪訝の表情を濃くした。
光波はほぼ崩れ落ちるように、煌士の足元に平伏する。
「も、もし妊娠した場合、僕の力ではどうしようも出来ない問題が色々とありまして……、だから、その、叶うならば、身篭もらずに帰りたいんです……っ」
何度も舌を噛みそうになりながら、土下座の体勢で必死に訴えた。
「……器役を辞退したいという事か?」
頭上から、抑揚のない声が降ってくる。
「い、いえ、それは……。期日を迎える前にここを追い出されてしまうと、僕の父の顔に泥を塗ってしまう事になるので……」
「それじゃあ、器役として最後までここにはいたいが、子作りはしたくないと?」
「そ……ういう事に、なってしまいます……」
光波の言い分を整理して尋ねる煌士の声には、呆れのような音が混じっていた。
とても失礼で無茶な言い分だという自覚はある。今すぐに追い出されたとしても文句は言えない。
けれど、あの日、煌士がケイジに呟いた言葉の奥に、与えられた役割から逃れられない苦悩が隠れているのではと推察せずにはいられなかった。自分と同じような葛藤を抱えているのではないかと。
静まり返った室内に、時計の秒針が進む音ばかりが大きく響く。
額を畳に擦り付けた状態の光波は、煌士が今どのような表情をしているのか確認する事が出来ない。
「……勝手にしろ」
その一言を聞き、光波は勢い良く顔を上げた。
煌士は脱ぎ捨てたTシャツを拾って、着直している。
「あっ、有り難うございます……!」
礼を述べる声に自然と力がこもった。
上手くいくかもしれないという期待はあったが、それでも実際に承諾の言葉を聞くと驚愕が大きい。
二組並んで敷かれた布団のうちのひとつに、煌士が体を横たえた。
初日の事を思い出し反射的に身構えた光波だったが、これから情事が始まるような妖しい気配は微塵もなく、煌士は気の抜けた欠伸をこぼした。
本当に、このまま何も為さずに時間を過ごしてくれるようだ。
「あの、それでは僕は、お時間まで隣の部屋に……」
「やめろ。玄関前に監視役がいる。違う部屋で過ごしていると気付かれたら言い訳が出来ない」
「あっ、そ、そっか……」
立ち上がろうとして、すぐに正座の体勢に戻った。
営みが行われている間、玄関の外には監視の使用人が待機している。
監視役と言っても、何かしら不測の事態が起こった場合にすぐに対処出来るようにというのが目的だ。
部屋の中を覗いたり、情事の声に聞き耳を立てたりしているわけではないのだが、煌士の言う通り、絶対に不正に気付かれないという保証はない。
(でも、これは……、気まずい……)
布団の上に寝転がった煌士と、部屋の出入り口付近で置物と化している光波。距離を保ったまま、静寂の時が過ぎていく。
そろそろ十分は経っただろうと時計を見れば、まだ二・三分しか進んでいなくて落胆した。
「……あの、煌士様は本当によろしいのですか?」
「何がだ」
「雅楽代のお家にとって、跡継ぎを儲けるのはとても重要だとお聞きしたので、器役と子作りをしないというのは問題になるのでは……」
「お前が言うな」
「うっ……」
確かにその通りだ。ぐうの音も出ない。
窒息してしまいそうな沈黙に耐えられず、とりあえず頭に浮かんだ疑問を精査もせずに吐き出したが、完全に失敗だった。
器役でありながら子をつくりたくないと言った光波が、雅楽代家の跡継ぎの心配をするなど滑稽だ。
仰向けで目を閉じていた煌士が、寝返りを打ち光波に背を向ける。
「俺は、子供がほしいなんて自ら言った覚えはない」
その声には何の抑揚もなく、どのような感情がこもっているのか計り知るのは難しい。
けれど、煌士もこんな仕来りは望んでいないのではないか、という光波の推察が当たっていた事が分かる。
光波はこの一ヶ月を耐えれば解放されるが、煌士はその後もオメガや女性を抱き続けなければならない。子供が出来るまで。
過去にだって、何人もの器役と不本意な性交を繰り返しているはずだ。
もしも自分がその立場だったら。きっと光波の想像力では足りないほどの虚しく辛い日々だろう。
丸まった煌士の背中がとても心細く見えて、肺を握り締められたみたいに息が苦しくなった。
「あの、こう言ってはおこがましいかもしれませんが、煌士様の気持ち、少し分かります……。良く知らない相手と子供をつくらないといけないって、怖いですよね……」
思わずこぼした本音に、煌士が、ふ、と嘲るように息を吐く。
「それなら器役の打診があった時に断れば良かっただろ。お前は俺と違ってそういう仕来りがあるわけでもなし」
「そう、なんですけども……。とても、言えるような立場ではなくて……」
語尾に向かうにつれ、光波の視線が角度を下げる。
「僕は、雅楽代の子供を産む為だけに生まれて来たので……」
幼い頃から父に何度も言われて来た言葉を、自棄な気持ちで自ら口にする。
その唯一の存在理由すらこうして放棄しているのだから、もう自分がこの世を生きる意味はないのではとすら思う。
無理矢理笑みをつくった光波の口元は、繕いきれずに少し歪んでいた。
「そんなわけあるか」
正面から力強い否定が返って来て、光波は驚きに弾かれ顔を上げる。
「生まれた時から人生が決まっている人間なんて、いるわけがない」
煌士は相変わらず光波に背を向けていて、表情は読み取れない。
「……俺は占いをするが、周りの人間達はそれが未来予知の領域だと言う」
「は、はい、存じております」
「けれど俺が見るのは、無限に枝分かれした未来のうちのたったひとつだ。好ましい結果だったならば占い通りに行動すれば良いし、望まないと思うならば回避する方法を考えればいい」
何故突然占いの話になったのか分からなかった光波は、困惑を隠せないままに相槌を返す。
光波が話の意図を理解していないと、背を向けたままでも感じ取れたのか、煌士はあからさまに大きなため息を吐いた。
煌士は緩慢な動作で体を起こし、その場に胡座をかく。視線は相変わらず光波とは別の場所に向けられている。
「雅楽代の子供を産む為だけに生まれたというお前も、無数にある可能性のひとつに過ぎない。嫌なら動け。絶対に違う道が見つかる」
関心薄な横顔も威圧的な物言いも変わらないのに、その言葉は今までと違って光波の胸に暖かく染み込んでいった。
これまでの言動からして、煌士が光波にお世辞や同情を言うわけがない。だからこそ、本心から言ってくれている事が分かる。
「……そ、んな」
喉が詰まる。胸が締め付けられる。
込み上げて来た感情をどう言葉に変換すべきか迷っているうちに、抑えきれなかった気持ちが瞳から溢れた。
頑なに視線を合わせようとしなかった煌士の顔が、突然嗚咽を漏らし始めた光波の方へと向けられる。驚きに目を見開いて、らしくない戸惑いの表情を浮かべていた。
「何で泣く」
「わ、分からない、です……っ」
光波は正直にそう答えたが、しばらくして、自分は嬉しくて泣いているのだと気付いて、余計に涙が止まらなくなった。
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