7話

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7話

 次の面会日まで、五日の間が空いた。  煌士に改めて謝罪したいと思っていたのだが、面会日でなければ会う機会もない。  ケイジの散歩中にまた出会すかも……、と思い何度か庭に出てみたが、数分もすると怖じ気付いてしまい踵を返した。  もし本当に煌士がいて、目が合った途端に迷惑そうな顔をされたら……。  想像しただけで、心臓を絞られるような苦しみに襲われて耐えられない。  結局、ちゃんと謝罪が出来ないまま次の面会日がやって来た。 (来ない、とか、あるのかな……)  煌士が訪れる予定時刻よりも大分前から、光波は廊下に待機していた。けれど予定の時間を十分過ぎても玄関が開かず焦りが募る。  もしかしたら、煌士はもう会いに来ないのかもしれない。  しゅんと肩を落とした光波だったが、直後、玄関戸の磨りガラスにぼんやりとした人影が映り、勢い良く顔を上げた。  喜んだのも束の間、その人影の下方にやたら大きな白い影が揺れていて、光波はその正体が分からず首を傾げた。  それが何なのか予想をつける間もなく玄関戸が開き、光波は慌てて姿勢を正す。  扉が開くと同時に飛び込んで来たものが、謎の白い影の正体だった。 「ケイジくん……!」  光波の呼び掛けに応えるように、ケイジがきゅんきゅんと甘えた声を出す。  激しく左右に振られる大きな尻尾に、堪えきれない興奮が現れている。  ケイジは少しでも光波に近付きたいようだったが、ぴんと伸びたリードがそれを許さない。太いリードは、煌士の手へと繋がっていた。 「こ、煌士様、どうして……?」  光波はケイジを撫でながら、挨拶も忘れて煌士に尋ねる。 「……今日は昼間にあまりケイジを遊ばせてやれなかったから、庭を軽く散歩していた。そのついでにここにも連れて行こうかと思っただけだ」  心中の読めない平坦な表情と声で煌士が答えた。 「そうなんですね」  と納得したような事を言いつつも、光波の頭の中には変わらずクエスチョンマークが飛んでいた。  煌士の後ろでずっと狼狽している監視役の使用人の姿を見れば、この状況に困惑しているのが光波だけではない事が分かる。 「……嬉しくないのか」 「えっ」 「会いたかったんだろ」  煌士は小さく独り言のように呟くと、眉根を寄せて顔を背けた。  前回煌士と会った際に、ケイジに会いたいと話したのを思い出す。 (もしかして、僕の為に連れて来てくれたの……?)  それはさすがに自惚れ過ぎかと思っても、思考回路が都合の良い方向へと繋がっていき止められなかった。 「……嬉しい。すごく嬉しいです、有り難うございます……」  ケイジに会えた事はもちろんだが、それ以上に、煌士がそんな心遣いをしてくれたかもしれない事が嬉しくて。  たとえそれが勘違いだとしても、あんな些細な会話を覚えてくれていただけで大きな喜びを感じた。  光波は床に膝を突き、ケイジの首元に抱き着く。  ケイジのふかふかの毛が、ほのかに赤く染まった光波の顔を隠してくれた。 「煌士様……、よろしければそろそろ……」  困惑しながらも黙って二人のやりとりを見守っていた使用人が間に入って来て、光波とケイジの短い再会が終わった。  使用人に連れられて帰っていくケイジを玄関から見送る。  ちらちらと寂しそうに何度もこちらを振り返るケイジの姿が哀しくも愛しく、今度は僕が会いに行くから、と、心の中で誓った。 (……あれ? 煌士様?)  気付けば背後にいたはずの煌士がいなくなっていて、光波は慌てて玄関を閉めて室内へと戻る。  営みに使われる部屋の襖を開けてみれば、案の定、煌士は定位置である布団の上にいた。  けれど今日は体を横たえる事なく、胡座をかいて座っている。 「あの、失礼します」  緊張に強ばりながらも挨拶をして、煌士から少し離れた畳の上に腰を下ろす。こちらも定位置となっている場所だ。 「……先日は、大変失礼な態度をとってしまい申し訳ありませんでした。叩いてしまった手は大丈夫でしたか……?」 「……別に」  煌士からは、いつも通りの素っ気ない一言が返って来た。  いつも通り、という事は、怒っているとか、幻滅しているとか、光波が心配していたような心境の変化はないのかもしれない。  一先ずは安堵し、膝の上で握り締めていた拳からわずかに力が抜ける。  そのまま会話が終わるかに思えたが、意外な事に、今度は煌士の方が沈黙を埋めるように話し始めた。 「あの日は……、機嫌が悪かった」 「あの日……?」 「お前と初めて会った日だ」  出来るだけ避けたいと思っていた話題を切り出され、光波の心臓が嫌な鼓動を刻む。  けれど触れたくない過去なのは煌士も同じなのか、決して光波の方を向かない顔がわずかに顰められている。 「いつになったら子供が出来るんだと、親戚達にねちねち言われた後で……、お前はお前で、まるで自分は被害者だと言わんばかりに泣くから、余計に腹が立って」  回顧する煌士の言葉が胸を抉り、光波は青ざめていく顔を深く俯けた。  確かにあの日、光波は最初から最後まで泣きっぱなしだった。嫌だ、やめて、と悲痛な声ばかりを聞かせ、それに対して煌士が苛立っているのは分かっていた。  嫌々とは言え器役を引き受けた以上、嘘でも「気持ちがいい」と喘いでみせるべきだったのだ。  煌士が好きで器役を抱いているわけではないという事も後に分かって、今は余計に自分の振る舞いが無礼だったと感じる。  やり直しのきかない過去の失態をどう詫びれば許してもらえるのか分からず、光波は畳に手をついて「申し訳ございません」と涙を堪えながら頭を下げた。 「やめろ……っ!」  間髪入れずに張り上げられた煌士の声が、部屋の中に響く。  怒鳴るような勢いに、光波はびくりと体を震わせ恐る恐る顔を上げた。  視線がぶつかった瞬間、煌士はすぐさま顔を背けた。刹那に真正面から捉えた煌士の表情は、怒っているというよりも悲しそうに歪んでいるように見えた。 「……あの時はそう思っていた、と、ただ事実を述べただけだ。だからあれはお前のせいだと、お前が悪いのだと、言ったわけじゃない」 「……は、はい」 「機嫌が悪かったからと言って、あんな扱いが正当化されるわけじゃない。だから……、もし、あの事がお前のトラウマになっているのなら……、その……」  いつもなら落ち着いて淡々と流れていく煌士の声が、今はどこか急ぎ足で、ぎこちなく言葉を詰まらせてさえいる。  光波は土下座の体勢から中途半端に顔を上げたまま、涙で潤んだ瞳できょとんと煌士を見つめた。  恐らく何かを言おうとしている事は察したが、それが何なのか光波には見当もつかない。  煌士の喉に引っかかっている言葉が吐き出されるのを、光波はただ静かに待った。 「……悪かった……」  煌士の顔は光波のいる場所とは違う方向に向いていたが、独り言のような小さな謝罪が光波に対して渡された事は間違いなかった。  まさかそんな言葉が出て来る思わず、今度は光波の方が言葉を詰まらせる。  苦しくて込み上げていたはずの涙が、今は心地好いくらい温かいものへと変わっていた。  ほろりとこぼれ落ちた涙の粒を手の甲で拭い、がちがちに強ばっていた体から力を抜いて座り直す。 「……あ、あの、この前……、煌士様の手を振り払ったのは、びっくりしたのもあるけど、その、初めて煌士様に触れられた日の事を思い出して、怖かったからなんです……」 「……そうか」  呟いた煌士の声は暗く、心なしか目線も角度を下げている。  気付いた光波は慌てて「でも」と言葉を続けた。 「もう、大丈夫になりました。煌士様が話してくれたので、怖くなくなりました」  煌士の顔を立てようと、無理をして言っているわけではない。  本当に、自分でも信じられないくらい、煌士への恐怖心が溶けてなくなった。煌士の姿を見て湧き上がってくるのは、穏やかな感情ばかりだ。 「そんな媚びは必要ない」  けれど煌士は光波の言葉を信じられなかったようで、不満気な声を放ち光波の赦しを拒絶した。  どう説明すれば本心だと分かってもらえるのか。  光波は頭の中で懸命に言葉を組み立てるが、どれも安易で煌士には届かないような気がした。己の言語能力の拙さが怨めしい。 「あの、煌士様のお傍に行ってもよろしいですか?」  本心だと分かってほしい。  そんな強い気持ちから、言葉が駄目ならば行動だ、という結論を導き出した。 「そういうのはしなくていいって言ってるだろ」  光波が無理をしていると思っているらしい煌士は、光波に向かって手のひらを突き出し接近を拒んだ。  光波を気遣っているのかもしれないが、二度も突き放されればせっかく絞り出した勇気も萎む。 (でも……、近寄るなとは言われなかった)  一度は元の場所に座り直した光波だったが、再度自らを鼓舞し立ち上がった。  布団の上、煌士のすぐ隣に、ままよと勢い良く腰を下ろす。  ずっと背けられていた煌士の視線が驚きと共に光波に向けられたが、今度は光波の方が煌士の顔を見れずに深く俯いた。  他人の意見を跳ねのけてまで積極的に行動したのは、恐らく生まれて初めてだ。慣れない事をしたせいで、心臓がどきどきと激しく鼓動して落ち着かない。 「ほ、ほら、もう怖くないです」  つい、と、煌士のシャツの袖をつまんで控え目に引っ張る。  怖くないから触れますよ、という光波なりの主張だ。  本当は肌に触れた方が分かりやすいだろうかとも思ったが、さすがに恥ずかしくてそこまで大胆にはなれなかった。  しかし煌士からは一向に反応が返って来ず、掴んだ袖を離すタイミングが分からなくなる。  さすがに不安になり、ずっと下に落としていた視線を上げた。煌士の様子をこっそりと窺う。 (…………?)  煌士は片膝を立て、そこに乗せた腕に顔を突っ伏していた。  表情が全く見えず、煌士の心境を推し量る事が出来ない。まさか寝てしまったわけではないだろうけど。 「煌士様、あの」 「怖くないなら、もう良い」  光波が呼び掛けてようやく、顔を隠したままではあるが煌士が反応を示してくれた。  煌士の口から出たとは思えない困り果てた声だったが、自分の気持ちが伝わった事が嬉しい光波は、そんな変化には気付けなかった。 「そうなんですよっ、怖くないんですっ」  はしゃぎ、今度は思い切ってシャツ越しの腕に触れてみせる。  このままでは全身を撫で回しかねない光波に、「もう良いって言ってるだろ……」と、煌士がまたもや弱々しい声を漏らすのだった。
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