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8話
あの夜から、二人の距離は随分と縮まった。
何を話して良いか分からず沈黙する時間は日に日に少なくなり、隣り合って他愛もない会話をする時間が増えた。
煌士の口から語られる日常は光波にとっては非日常で、逆に光波が語る日常は煌士にとっての非日常だ。
それを語り合うのが光波は楽しく、煌士の方も、笑ったりはしゃいだりはせずとも光波の話に興味を持っているようだった。
昼食後は庭に出るのが日課になり、ケイジがいればケイジと遊ぶ。
ケイジのお守りは当番制らしく、毎回違う使用人が付き添っているが、皆嫌な顔もせず光波の相手をしてくれた。ケイジは言わずもがな、光波の登場を毎度喜んでくれる。
ケイジの散歩をしているのが煌士だった時は大当たりを引き当てたような気分で、ついつい立ち話が長くなってしまう。
あんなに逃げ出したかった雅楽代の家が、随分と居心地の良い場所へと変わった。
けれど時の流れとは無情なもので、憂鬱な時間は永遠のように感じても、楽しいと思えばあっという間だ。
(あと、一回……)
広げた手帳を何度確認しても、今日以降に面会日を示す丸印が付いているのは一回だけだった。
何の予定もない日も合わせれば、光波が雅楽代家に滞在するのは残り五日だ。
けれど、残りの五日どころか、貴重な最後の面会日にさえ煌士には会えないかもしれない。
発情期が、もういつ始まってもおかしくないのだ。
発情期は月に一回、女性の月経と同じく定期的にやってくる。
今月は予定よりも大分遅れていたが、体温の上昇や下腹部の違和感など、発情の兆候が光波の体に表れ始めていた。
恐らく、早ければ明日にでも、遅くとも最終日までには必ず発情期が始まるはずだ。
そうなれば、具合が悪いだ何だと理由を付けて面会を中止してもらおうと光波は考えた。
自分を守る為、ではなく、煌士を守りたいからという気持ちの方が強い。
発情期のオメガを前にして、アルファは性欲を抑えられない。
たとえ耐えられたとしても、アルファにとっては拷問にも近い苦行だと聞く。
煌士がそこまで取り乱している姿を想像出来ないが、れっきとしたアルファなのだから例外ではあるまい。
発情期にあてられて、抱きたくもない光波を抱いてしまうのも、同じ部屋の中でオメガフェロモンに長時間耐えるのも、煌士にとっては計り知れない苦痛になるのは明らかだ。
ならば、最初から会わなければいいと光波は思ったのだ。
会いたい、という己の願望を押し殺し、煌士の安寧を願う。
「…………?」
大きなため息を吐いた光波の耳に、ドンドンと玄関を叩く音が聞こえた。
時刻は昼の二時過ぎ。昼食を食べ終え、食器は既に取りに来てもらったし、と、心当たりのない来客に首を傾げる。
部屋を出て玄関に向かってみると、玄関戸の磨りガラスに、背の高い人影と、下方に大きな白い影が映っていて目を見開いた。
もしかして、と、急いで玄関の鍵を開ける。
「煌士様っ」
扉を開ければ、期待通りの人物が立っていて、光波の表情が綻ぶ。
「ケイジくんも」
もうひとつの白い影の正体も、やはり光波が予想した通りだった。
すぐに地面に膝を突き、ケイジの体を嬉々と撫で回す。
「どうしたんですか? 何故こちらに?」
一人と一匹が戯れる様子を仏頂面で傍観している煌士を見上げ、光波はにこりと笑みを浮かべた。
「……別に、ただ立ち寄っただけだ」
少しずつ打ち解けるにつれ、煌士の表情の変化を目にする機会が増えた。とは言っても、基本が無愛想なのは変わらないが。
けれど光波はもうそれを高圧的だとは思わないし、恐ろしいとも怯えない。
「そうなんですね、有り難うございます。お会い出来て嬉しいです」
ケイジに会えた事ももちろんだが、何より、面会日でもないのに煌士が出向いてくれた事が嬉しい。
それがただの気まぐれでも、光波の事を考えてくれた事に違いはない。
「今からお散歩ですか? どうぞお気を付けて」
「…………」
「…………?」
見送りの言葉を告げても、煌士はその場から動こうとしない。
煌士が、ふいと顔を背ける。
この仕草をするのは、言いたい事があるけれどなかなか言い出せない時なのだと最近気付いた。
煌士の内に眠った言葉が音になるのを静かに待つ。プレゼントの中身を確かめる瞬間のようなこの時間が、光波は結構好きだった。
近くの花壇へと向かっていた煌士の視線が、光波の元へと戻って来る。
「お前も来たいなら、勝手について来て良い」
「えっ? 一緒にですか?」
嬉しい誘いに、飛び跳ねるような勢いで立ち上がる。
「好きにしろ」
「行きます、行きたいですっ」
連れて行ってと乞う声が無邪気に弾んだ。
本当は、発情期に備えて部屋にこもるつもりだったのだが、そんな計画は一瞬で吹き飛んでしまった。
光波は部屋から薄目の上着を持ち出して、それを羽織ってから煌士やケイジと共に雅楽代家の庭を歩く。
「……家に帰ったらどうするんだ」
隣を歩いていた煌士が、進行方向に視線を向けたまま静かに問い掛けてきた。煌士の方から会話を始めるのは珍しい。
「……家に、帰ったら?」
問われて、初めてこれからの事を考えた。
雅楽代の子を成せなかった事に対して、父が怒り狂うのだけは間違いない。
それからは……、どうなるのだろうか。
こうして器役になれるのは、一生に一度だけだ。器役も種役も、二度目を務めた人物はいないと聞く。
雅楽代家の器役という価値が消え、アルファ一族に生まれた異端のオメガという足枷ばかりが残った自分を、父はどうするのだろうか。
頭の中でどれだけ様々な可能性を探ろうとも、最後は必ず悲惨な結末に辿り着いてしまう。
「えっと……、そうだ、煌士様の方は? 煌士様の方はどうなさるんですか?」
とても煌士に聞かせられる内容ではなくて、強ばった顔に無理矢理笑顔を貼り付けて話を逸らした。
「俺は何も変わらない。次の器役を待つだけだ」
淡々と答えを返した煌士に、光波の胸が切なく痛んだ。
光波の器役は一ヶ月だけでも、煌士の種役はこれからも続いていく。
煌士の子種を実らせる事の出来る、運命の相手が現れるまで。
それを今初めて知ったわけでもないのに、光波は動揺せずにはいられなかった。
「……あ、あの……。煌士様の占いで、身篭もってくれるお相手を見つける事は出来ないのですか……?」
そうすれば、望まない行為をしなくて済むのに、と、光波は控え目ながらも進言してみた。
煌士がこれからもまたたくさんの器役を相手にするのが面白くないという私情も、少し入っていたかもしれない。
「それは出来ない」
光波の提案を、煌士は考える様子もなく退けた。
「俺は……、俺達は、自分に関わる事は占えない。例えば俺とお前がどうなるか占おうと思っても、俺が関わっていない事が前提の未来しか分からない」
「そう、なんですか」
よくよく考えれば、占いで運命の相手が分かるのならば、こんなに時間もお金もかけた仕来りなどとっくに廃れているはずだ。
自分の浅はかさが恥ずかしくなり、光波は言葉を見失う。
「……本当は、やめたいならばやめていいと両親からは言われているんだ。それを俺の意思で続けている」
「……どうしてですか?」
「両親は、仕来りとは関係のない所で俺を授かった。俺は占いを出来るようになるまで時間がかかったせいで、仕来りを守らなかったせいだと余計に非難されている。これでまた俺が仕来りを放棄すれば、両親への風当たりはきっと今以上に厳しくなるだろ」
だから形だけでも仕来りを守るのだと呟く煌士の表情が、とても切なそうに見えた。けれど同時に、両親を思う優しい横顔でもあった。
課せられた使命から逃げたくとも逃れられない光波と、逃げたくとも逃げない煌士。
同じ苦悩を抱えているはずなのに、向いている方向が異なればこうも違うのかと思う。
こんな自分なんかが煌士に対して同情や励ましを授ける資格はないと思い知り、また何も言えなくなった。視線が自然と足元に落ちる。
「……お前が気に病む必要はない」
光波が哀れみの気持ちから意気消沈としていると思ったのか、煌士はそう声を掛けた。
せっかく心の内を話してくれたのに、自分が暗然としていたら困らせてしまう。
満面の笑みをつくる事は難しくとも、せめてもと光波は顔を上げ、煌士の瞳を見つめる。案の定、煌士はすぐに目を逸らしてしまった。
「あの、煌士様。先程、家に帰ったらどうするのかと聞いてくださいましたね」
「あぁ」
「家に帰ったら……、今度は、契約とかそういうの関係なく煌士様に会いに来たいです」
思わず、といった様子で、煌士の顔が光波の方を向いた。驚いているのか、いつもより黒目が大きく見える。
自分でも突拍子もない事を言っている自覚はあるが、ここを出た後どうしたいかと考えた時に、それが一番今の自分の願望に近いような気がした。
遅れて恥ずかしさが込み上げて来て、今度は光波が煌士の視線から顔を背けた。
「も、もちろんケイジくんにも会いたいですし……っ。器役の間は雅楽代の敷地から出られなかったので、みんなで外をお散歩したり、お買い物とか。ワンちゃんも一緒に入れるカフェなんかも行ってみたいです。とにかく、色んな所に出掛けてみたいんです。普通の、お友達みたいに……」
友達、と口にした瞬間、表現し難い寂しさに胸を締め付けられ声が途切れた。
何かを決定的に間違えたのだとすぐに気付いても、その何かが分からず焦燥する。
「……そうか」
次の言葉を紡げずにいた光波に対して煌士が示した反応は、何の抑揚もないその一言だけだった。
光波を見つめるでもなく、ケイジの姿を追うわけでもなく、ただどこか遠くを眺めながら。
俺もだ、などと、社交辞令でも煌士がそんな事を言うわけはないと分かっていた。
分かっていたけれど、興味のなさそうな、心ここに有らずな横顔を目の当たりにし、悲しみが募る。
光波は頭の中に描いていた煌士との未来を黒く黒く塗り潰し、心の奥深い場所へと打ち捨てた。
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