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ハルシオン
片想いなんて、独りよがりな幻想だ。
そう、何度も心の中で繰り返す。
私は十七歳の夏を迎えようとしていた。
***
こんな気持ちを抱くようになったのは、いつからだろうか。
窓の外を見ながら、ぼーっと考える。体育後の古典の授業。淡々と進む中、クラスの半分くらいは寝ている。いつもの光景。
斜め前に座る彼女を、気付かれないようにちらっと見る。まわりが寝ている中、真面目に板書を写している彼女の長い睫毛に、見惚れてしまいそうになる。
長袖とも半袖ともつかないようなこの季節、彼女は毎日のように炭酸水を飲んでいた。私も真似をして飲んでみたが、味のないただのしゅわしゅわの、何がおいしいのかさっぱり分からなかった。なけなしのお小遣いで買うなら、おいしくて、ついでに甘いものの方がいい。私は彼女の隣で瓶をからころ鳴らしながら、やっぱりラムネのほうが好きだな、と思った。
***
それは、運命の出会いだったと思う。
彼女と出会ったのはこの新しいクラスになってから、つまり二年生の始めの頃だ。私たちは、初めて会ったばかりの人間にしては気が合いすぎていたように思う。まるで、昔から親友だったのではないかというくらいに。お互いの気持ちが手に取るように分かるほどで、最近古典で習ったことばで言うなら「前世からの深い因縁」ってやつじゃない、なんて笑った。それが正しいのかはわからないけれど、本当にその言葉が一番似合っていると信じてしまうような関係だと思った。
彼女には、桃也という仲のいい幼馴染の男がいた。小学校からクラスが離れたことが無いらしく、毎日一緒に登下校していると聞いた。彼女とは「前世で契りを結んでいる」とはいえ、彼女と幼馴染との時間を邪魔するのはどうしても躊躇われる。が、そんな私の悩みに彼女はおかまいなしだった。半歩後ろで会話に混じりながら下校したかと思えば、いつしか私たちは三人でいることの方が多くなった。馴染むのなんてあっという間だった。
初めに抱いていた、後ろめたさのようなものはすっかりなくなっていた。ただ三人でいる、それだけの時間がなによりの幸せだった。
***
彼女は大切な友達だった。
彼女の付き合い方は男女関係なくさっぱりとしていて、他に特段仲の良い友達はいないようだった。彼女の隣はほとんど私の特等席になっていた。彼女の肩に頭をつけて、前の日にネットで見たものやその日あったことを話す時間が好きだった。ときたま話す勢いが止まらなくなってしまうと、彼女は飲んでいるペットボトルやもう片方の手にもっているお菓子を静かに口元に差し出してくる。炭酸水のおいしさは相変わらずわからなかったけれど、同じものを共有させてくれることへの気持ちのほうが大切だった。その特別感が、嬉しかったはずだった。
それは「私だから」特別なんじゃなくて、女の子なら「みんな」そうするのだと知ったとき、そのとき抱いた感情に私は自分で驚いた。私は幸せでありながら、不幸せだった。
彼女と私との距離が物理的にも心理的にも近いことは、幸せなことだった。女の子だから、と無条件に注がれる愛を受け取るようなものなのだ、幸せに決まっている。それなのに苦しいのは、無条件の愛ゆえに、彼女には思い出として何一つ残らないことであった。
こんなにも苦しいのに、離れることはできなかった。いや、離れたくなかった。贅沢な悩みであることは自覚していた。
彼女は、特別で、普通の友達だった。
***
神様は、きっと優しくしたつもりなのだろう。
あっという間に時は流れ、私たち三人はクラスが変わらないまま、進路を決める大事な時期に差し掛かっていた。
私と桃也は大学へ進学するつもりだったが、どうやら彼女は違うらしかった。私はこのとき初めて、彼女が歌手を目指していたことを知った。
ギリ進学校といわれる私たちの学校では、就職することはさして珍しいことではなかった。彼女は、都会で働きながら歌手を目指すと言った。
応援してるから、会いに行くから、と私は言った。この二年間で培われた私たち三人の関係は、こんなことで壊れるはずがなかった。
後で知ったことだが、私と桃也は同じ大学に合格していたらしい。仲が良かったとはいえ、随分奇遇だなと思った。
桜前線なんてまだ届かない肌寒い日に、私たちは校舎に別れを告げた。
***
カルピスの喉に引っかかるような感じが、すこし苦手だった。
大学生活にも慣れてきた頃、私と桃也は今まで以上に距離が近くなっていた。授業終わりに一緒に食事に行ったり、お互いの部屋に泊まることだってあった。
スーパーにラムネが並び始める季節、私は桃也から付き合おうと言われた。桃也が私のことを大事に思ってくれていることは感じていたが、友達同士の、いわゆる無条件の愛のようなものだと思っていた。正直に言って、私は彼女ほど桃也を理解できているつもりはなかった。
少し考えた後、私はその告白を受けることにした。これによって関係が壊れることはないと思ったからだ。私たち三人は、どんなことがあってもあの頃のように三人でいられると信じていた。
だからだろうか。キスをされた時、それは違うと思った。私を「女」として見ている彼を、こんなにも嫌悪している自分に少し驚いた。彼にもきっと余裕がなかったのだろう、そんな私に気づくことなんてなくて、気づけば私は「女」であるというレッテル張りの儀式を終えていた。
彼には何の落ち度もなかった。終始優しい眼差しを向けていた彼に、きっと普通の女ならオチるのだろう。愛はあった。が、愛のない行為だった。
性的に求められることがこんなにもショックだとは思っていなかった。確かに繋がっていたはずの私たちは、血の繋がっていない赤の他人であるのだと、はっきりと思い知らされたようだった。言葉で縮めてきた私たちの距離は、身体の距離を縮めたことで遠ざかった。
その後私は、核心的な理由は告げずに別れを切り出した。彼がそれをあっさりと受け入れたことが、少し意外だった。あの日をきっかけに、「君へ抱くようになっていた気持ちは恋ではなくて、単なる性欲だった」ことに気づいたらしい。
私たちは、もうあの頃のように戻ることができなくなってしまったらしかった。十九歳の冬だった。
***
変わりゆくものの中で、思い出だけは裏切らなかった。
私の中で、彼女は高校生のあの頃のままで止まっていた。会いに行くと約束したのに、私は一度も連絡を取っていなかった。
彼女との関係まで変わってしまったら、もう何を頼りに生きていけばいいのか分からなかった。だから、私は彼女を記憶の中に閉じ込めて、あの苦しくも幸せだった日々を大事に仕舞い込むことにした。栞を挟んで本のページを閉じるように。ここからページを進めなければ、私と彼女との物語は止まったまま変わらないから。
そう思ってたのに。
あなたは大人になってしまった。成人式の前撮り写真が母から送られてきた。あなたは勝手に大人になってしまった。
あの日。初めて出会った日から、私たちは劣化してしまったのかもしれない。時を経て、私と彼女からは炭酸が抜けてしまったみたいだ。べたべたの糖分だけが残った私と、味も何もしない透明な彼女。
手を伸ばしても届かない偶像を、私は永遠に追いかけている。
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