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8.機械仕掛けの人形
少しの傷みや汚れなど気にならないほど、壁画は美しいものだった。
題材がなんなのか分からないが、まず間違いなく宗教的意味の込められた一場面だろう。
壁画は精緻かつ写実的に描かれている。
背景の妙な黒色には深い意味がありそうだが、構図は至ってシンプルであり、見る者を惑わせることはない。
色彩の鮮やかさが、未だ残っていることにも感心する。
ただやはり……この地域の絵画や宗教色とは随分違う印象を受ける。そこにオリエタンリズムを見出すのは難しい。これはもっと西側の、西欧風のスタイルだ。とはいえただの芸術作品であるはずもない。なにせここは「蹉跌の塔」と呼ばれる程の場所だ。
蹉跌……国樹は思い出すかのよう、その名称について考えた。蹉跌というからには、なにかしら悔いる意味合いを持つのだろうが、それがなんなのかは分からない。地元の人間や、調査団の連中は端から遺跡に興味などなく、塔の由縁やその経緯についての知識もなかった。
そして建物の中を見ても、その意味するところを感じさせるものはない。しいて言うなら、こんな所いっそ来なければ良かった、そんな国樹の個人的心情が蹉跌にあたるぐらいか。
……ありがたい絵を頭上にして、いくらなんでも僭越だった。
視線を落とし、国樹は溜め息をつく。せっかくここまで来たにも関わらず、結局なにも分からずじまいで終わりなのか。取り分も少ない、ほんとなにしに来たのだか。
それでも切り替えよう、ここがゴールではない。国樹は自分にそう言い聞かせ、隣のゼスに視線を送った。
当のゼスは熱心に、本当に妙な熱心さで天井画を見ていた。どうせ見ても分からんだろうに、そんなに珍しいのだろうか。不思議に思い、国樹は話しかけた。
「何がそんなに楽しいんだ? お前絵画に興味あんのか?」
「ううん、別に。そういうんじゃないよ。ていうかこれって絵画なの? 額縁とかついてないけど」
んなもの知らない、と国樹は苦笑し再び天井を見上げる。
「しかし、あの男の絵はえらいマッチョだな、細身とはいえ」
絵の中の一人は立派な青年に見えた。写実らしく筋肉質に描かれた男性は、黒い髪を刈り上げ、短く切り揃えられた顎ひげはもみ上げと繋がっていた。相当毛深い設定らしい。少し笑ってしまうが、モデルは一体誰なのだろう?
この地域らしいと言えばそうだが、やはり分からない。ちなみに彼は全裸だった。ゼスがそこに疑問を呈する。
「ねえなんでさ、みんな服着てないんだろう?」
確かに。正確には青年だけでなく、実は全員揃ってヌード姿だ。国樹は頭を掻きながら口を開いた。
「まあこの手の絵はそういうものが多い。なにもかも晒して、という意味なのか肉体美こそが芸術と見てるのか、まあ芸術や宗教に疎い俺には分からないよ。けど結構なものだろう?」
「うん。凄いと思うよ」
そう言うゼスは、壁画から視線を外そうとしない。どこまで気に入ってるんだとまた意外に思ったが、同時になにか心の中に引っかかるものを感じた。しかし、判然としない思考の刺には気を留めず、再び見上げ国樹は大切なことを告げる。
「しかしなあ、いくら価値のありそうな物でも天井ごと剥がすわけにはいかないんだよ。連中も興味深そうに眺めてたが、結局手を出せずに帰った。お陰でこの大層な芸術的宗教画も、無事にすんだってことだ。いつまで持つやらは、知らないが」
さすがの国樹も、これを剥がして持ち帰ろうなどとは考えない。そもそも出来ないし、罰当たりにも程がある。
だが、紛争地帯傍にある蹉跌の塔が、いつまで持つのかなど誰に分かろうはずもない。少なくとも当事者の一方は、その価値をまったくと言っていいほど認めていない。
旅人として無念な話ではあるが、もしかしたらこれで見納めになるかもしれないと国樹は思い、落ち着かない世の中に少しの失望を覚えた。ここで生きるそれぞれの立場は分かるが、普遍的価値のあるものは守っていくべきではないだろうか。しかしその結論は、この旅が終わらねば分からないのかもしれない。
「まあ凄いのは凄いよな。誰が描いたんだか。ほんと、きれいなもんだよ。なんせゼスですら、見惚れてしまう代物なんだからなあ」
「ああ、うん、いや違うんだよ。あのさ、三人……ううん、この絵って、二人いるじゃない?」
国樹はきょとんとした顔をして、視線をゼスに向けた。
「三人だろう? 全員全裸じゃないか。男が一人、女が一人、もう一人は……」
また視線を戻す。
そこに描かれているのは男に見えた。
しかし女とも取れる、どうも中性的なのだ。
斜に構え両腕で特徴的な部分を隠しているので、外見からこうだとは判断し辛い。
挙句肌の色すら怪しいので人種の判別も難しい。
しかし人であることは間違いないだろう。
もしかしたら、性別のない神を描いているのかもしれないが。
「神様、かもしれないな。もしくは空想上の存在。性別を超えたもの、そんなとこか」
そう適当に答えてから、国樹はふっと気が付いた。自分がさっき何に引っかかっていたのかを。だからこいつ、ずっとこれを見ていたのか?
「ゼス、もしかしてだがお前……」
「タガロ、あれ違うよ。あれは物だ。多分作り物の、機械仕掛けの人形だと思う」
その言葉は、強く確信めいた響きを持っていた。ゼスらしくない、真剣な眼差しが壁画を捉え続けている。
機械仕掛けの人形? 随分意外なことを言う。国樹が考えていたのはゼスがゼスであることであり、機械仕掛けの人形などとは思いもしなかった。なにより、そんな風には全く見えない。
「どこ見てそう思うんだ? なんか根拠でも……」
そんな国樹の疑義はゼスの言葉に遮られる。
「右の男の人は人間だ。タガロと一緒。左の機械は良く分からないけど、グーシーに似てるね」
似てねえ、全然。箱だろあれは。
そもそもこれが男女と人形だって? なんだそれは?
宗教は、テクノロジーから最も遠い存在だろうに。
国樹は呆れた含み笑いを浮かべ、ゼスに問いかけた。
「じゃあ右が男で左が人形。で、ウェーブのかかった赤毛のお姉さまが真ん中に描かれていると、お前は言うわけだ。まさか真ん中の女も、人形って言うんじゃないだろうな」
だがそんな皮肉に、真剣な眼差しで壁画を眺めていたゼスが初めて笑みを見せた。
「なに言ってんのさタガロ、あれは天使だよ。僕と同じ、天使が描かれてるんだ」
それは怪しく嬉々とした、自称天使の言い分だった。
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