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第3話
「エリオット。いや、マクファーレル警部補。『ソフィア』という組織を知っているかね」
「いえ、知りません」
「まぁ、無理もない。あってないような組織じゃからのう」
「あって、ない?」
おうむ返しするマクファーレル警部補に、レイノルズ警視総監とソーンワイク博士は密かに目配せを交わした。
「では、まず『ソフィア』の成り立ちを説明しよう。『ソフィア』は、ウィーンで誕生した。年月日はわからんが、せいぜい6、7年前というところだろう。最初はサマラカス商会という名で、貿易関係の会社だった」
「会社? 組織というのは会社組織のことなんですか?」
「まあ、聞け。サマラカス商会は、ギリシャ名が物語るようにギリシャを後ろ楯に貿易をしていたのだが、ある時点からトルコを経由しての通商も行なうようになった」
「ギリシャとトルコですか?」
「そう、まさに敵国どうしとの貿易というわけだ。さらに、そのころ、ウィーンの商取り引きの一大勢力だったユーナス・シンジケートを吸収した」
「ユーナス・シンジケートというと、“青ひげ”ランベルグが率いていた組織ですよね。ランベルグは?」
「殺されたわい。ホテルの部屋で、まるで屠殺場の家畜のように切り刻まれてな。現場は、ヤツの買春の定宿だったそうじゃが」
いたましそうに首を振りながら、同情はフリだけという口調でソーンワイク博士が会話を引き取る。
「後継者はいなかったんですか?」
「ランベルグは死ぬ直前に遺言書を書いておってな。そこに指名された相続人、すなわちサマラカス商会に、組織は継がれたということじゃ。今でもランベルグの一族はユーナス・シンジケートの役職についてはおるが、『ソフィア』に吸収された以上、名ばかりの閑職であろうの」
「ウィーンの組織を吸収したうえ、ギリシャとトルコですか」
考え深げにつぶやくマクファーレル警部補を、レイノルズ警視総監は目を細めて眺めやった。
「それどころか、異業種企業を次々傘下に治めて、組織内で流通まで行なっている。裾野がどこまで広がっているのか、見当もつかんよ」
「なるほど。『ソフィア』についてはわかりました。しかし、なぜヤードが特別捜査を行なう必要があるんですか?」
「実は、『ソフィア』の本部が、近年、我が大英帝国に上陸したらしくてな」
「ええっ!? どうして?」
「さてな。理由はわからんが。まあ、この近代的発展目覚ましい我が国が、ヤツらの商魂に火をつけたとしても、わしは驚かんよ。ともかく、『ソフィア』は今、ここにいる。上層部のメンバーはだいたいわかっている。総帥は『プリンス』と呼ばれる人物だ。本当にどこかの王子だか公爵だかは不明だが。そういうあだ名というだけかも知れん。あと、経理士で、元サマラカス商会の会長だったテオドラキス・サマラキス」
「ギリシャ人!」
「そうだな。それからジェフリー・ハンター……」
「え、ジェフリー・ハンターって……」
「そう。あのハンター家さ。『黒ミサ事件』で没落した。ジェフリーはハンター家の長男で、事件以降、英国から姿を消していたんだが……」
「『ソフィア』に入ってたってことですね」
「うむ。『ソフィア』の英国進出に、ひと役かったのかも知れん。それに、ザルツブルグ在住の株式仲買人カール・エプスタイン。今のところ、名前がわかっている幹部はこのくらいなんだが」
「じゃあ、つかまえればいい。居場所もわかってるんでしょう」
「何の罪で?」
「え?」
「彼らは『ソフィア』に属しているというだけだ。そして、『ソフィア』が犯罪を犯しているという、表立った事実も証拠もない。そのうえ、『ソフィア』は会社や組織体として、どこかに登録されているわけでもない。アメーバのような、あってないような組織なんだ」
「雲をつかむような話じゃないですか。幹部ひとりひとりを四六時中監視でもしないかぎり、何もつかめない」
「そこなんだよ、マクファーレル警部補。我々がマークすべきは、『ソフィア』の“陰の副将”だ」
「は?」
突然、降って湧いた“陰の副将”などという、大げさにして実体の見えない呼び名に、マクファーレル警部補は怪訝の声を上げた。
「『ソフィア』の総帥は頭がいい。犯罪性のある部分は切り離しているのさ。その、いわば“陰”の部分を担っているのが“陰の副将”だ。この彼だか彼女だかは、手だれの暗殺者と思われる。先の“青ひげ”ランベルグや、他にもヤツの“仕事”と推定される件がいくつかある。実のところ、『ソフィア』をこんなに短期間に大きくできたのは、“陰の副将”のせいではないかってうわさがあるくらいで」
「それが英国に?」
「ああ。昨夜、英国における『ソフィア』関係者として、我々がマークしていた人物が自殺した。屋敷の敷地内の礼拝堂で首を吊ってな。だが、その死に不審な点がある。何より息子が絶対に自殺ではないと言い張るのでな」
「そこでじゃ、エリオット! 『ソフィア』特別捜査官として、初仕事を与える。ケント州マーゲイトのジャヴィット家へ行き、当主の死に、かの組織が絡んでいるのか、事の真相と、いるなら真犯人を突き止めよ!」
「……了解しました」
「……覇気がないのう」
──なんだか半分だまされてるような話に、そうそう単純にノれませんよ。今どき、“秘密組織”なんて。ただ、これは間違いなく警察の仕事だから行きますけどね。
ファイルを受け取って部屋を出ようとしたマクファーレル警部補の背後を、よく響く声が追ってきた。
「おい、エリオット!」
「はい」
「『ソフィア』の“陰の副将”はな、通称『シャディ』というそうだ」
振り向いた目に、神の啓示を託宣するかのように、まっすぐに立つ“おじ”が映った。こわばった顔に、心配そうな表情を浮かべて。
──心配? どこまでも豪気なこの“おじ”が? いったい何に?
「は!?」
「行ってこい」
一瞬前に見た表情はかけらもなく、レイノルズ警視総監はなにがおもしろいのか、にやにや笑いを浮かべている。
──なんかこういうにやけた動物に覚えがあるぞ。
警視総監室の重厚な扉が、そのにやにや笑いを視界から閉め出してくれた。
──そうだ、チェシャ・キャットだ! 『不思議の国のアリス』だ!!
マクファーレル警部補が、そのにやけた動物の名をようやく思い出したのは、ケント州に向けて爆走する馬車の中だった。
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