第4話

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第4話

 ケント州マーゲイトは北海からドーヴァー海峡への入り口にある、風の強い街だ。まっすぐに切り立つ岸壁は、英国の別名“アルビオン(白い国)”の名の由来である真っ白な肌を見せている。  崖下には北海からの高波が、永久機関の存在も夢ではないとばかりに、止むことなく打ち寄せる。おかげで、石灰岩質の岸壁には、波がうがった洞窟がそこここに口を開けていた。かつては、沖合いから密輸船が海に投じたものを、この街で待機している仲間や仲買人が拾って、洞窟に隠した。迷路のようにつながったものもある大小さまざまな洞窟は、金銀、宝石、骨董品、麻薬の倉庫、密売人たちのアジトにもなり、ときには人間が閉じ込められたまま餓死や溺死させられる処刑場にもなった。  崖下で繰り広げられていた陰惨な過去を知ってか知らずか、崖の上の平らな土地には、海に面して花咲く公園が広がり、パブや店舗、ホテルなどが激しい海風を避けて身を寄せ合うように集っている。  街並みを抜けてさらに進むと、ひとつ飛び出した岬に入る。夜明け前、霧をまとった闇の中、足元定かならぬ岩盤の坂を馬車はガタガタ上がっていく。岬の突端、海を隔てて街を見下ろす小高い台地にその館はあった。  ──なにを好き好んで、街中から離れた、こんな岬に館を建てたのだろう。  夜通し馬車を走らせてようやく辿り着いたジャヴィットの館は、上天からたれこめた鈍色の雲のせいか、海からたちのぼるモヤのせいか、その輪郭もはっきりしないまま、眼前に立ちはだかっている。館の窓は暗く、陰気に静まり返っていた。  馬車から降りたマクファーレル警部補は、潮風にさらされて錆が浮いた鉄の門扉に手をかけた。  ──この時間では、門番も館の者もまだ寝ているか。夜が明けるまで外で待たなきゃならないなら、一度、街に戻ったほうがいいかもな。  と、迷うよりも早く、館から門へ走り出てくる影がある。 「お疲れさまです。マクファーレル警部補ですね」  見れば、警官の制服を着た青年だ。 「そうですが」  長時間、声を出していなかったせいか、かすれた声に、我ながら「疲れている」と感じる。そんなしおれた声にきびきびした動作で敬礼すると、青年は言葉を続けた。 「到着をお待ちしておりました。そろそろ限界だったんです。昨日未明に当主の死体が見つかってから今まで、館にいた人たちの外出を禁じておりました。本庁からのご命令だったもので。ところが、なかなか……」 「抵抗にあったのですか」 「ええ。自分たちを犯人扱いするとは何ごとだ、と。そもそも父親は『自殺じゃない』と言いだした息子が率先して、我々の制止を無視して街へ出ようとするので、まいりました」 「そうですか」  警官と自分の話し声に気づいたらしい門番が現われて、館のほうをうかがい見る。いつの間にか館のエントランスに黒衣の男が立っており、門番にうなずいてみせた。門番が開いた門をくぐって、馬車はそのまま館の裏へ回し、マクファーレル警部補は警官とともにエントランスに向かった。 「コーウェイさん。こちらはロンドン警視庁のマクファーレル警部補です」  若い警官は「ロンドン警視庁」をことさらに強調した。暗に「警部補がすべての責任者です」と告げている。  ──館の連中に相当、剣突(けんつく)をくらわされたとみえる。  一筋縄ではいかなさそうな館のメンバーを予感して、心の中で溜息をつく。 「はじめまして。当家の執事を務めておりますコーウェイと申します」 「よろしく」  お仕着せの微笑を浮かべる執事に、感じがいいレベルの微笑を返す。事件の早期解決には、執事を味方につけること。上流階級に対する捜査法則第一条だ。 「まだ、皆さん、寝(やす)んでおられます。マクファーレル警部補にはお部屋と朝食をご用意いたします。皆さんがそろわれますまで、お待ちいただけますでしょうか」 「わかりました。そうさせていただきましょう」  通された部屋は海に向かって窓が開いていた。海辺の朝は明けるのが早い。濃藍の海が次第に明度を上げてくる。切れ切れになった灰色の雲の隙間から、日の光が帯を引いてもれでてくる。  水平線から生まれた雲が、窓の内から眺める自分の背後へ流れていくさまは、まるで今、地球が自転している証しのようだ。  やがて風が雲を連れ去り、春のけだるい青い海、青い空がまったりと広がるのだろう。  ──いったいここには何があるのだろう。  馬車のなかで読んだ資料を、脳内に甦らせる。  4月17日未明に発見された縊死体。死亡推定時刻は16日から17日へ日が変わったあたり。  ──ただの自殺だ。  けれど。  ──首に残った掻き傷は、自殺を覚悟したものの、縄が締まるのに脅えて抵抗したとも考えられる。しかし、索状痕が何重にも重なっているのはどう見る? 支えの椅子を蹴ってしまえば、お終いのはずなのに。何度も縄に体重をかけては、ためらったとでもいうのか。それに、なぜ足場に2つも椅子を必要としたのか。1つで十分のはずだ。シャンデリアをつなぐ縄は、椅子ひとつで事足りる長さだった。  ──完璧に自殺を装いながら、疑わしい証拠を残している。犯人がいるとしたら……狙いはなんだ。 「マクファーレル警部補。関係者が全員揃いました」  さきほどの警官がドアの外から呼びかける。 「今、行きます」  思考を止めて、マクファーレル警部補は立ち上がった。
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