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第8章 -1「日常の始まりとある決意」
「勝手にいなくなって、すみませんでした」
養護施設の所長室で、ボクは所長に頭を下げて謝った。
「……それで? 今までどこにいたんだね?」
かけられた野太い声の中に、押し込められたいら立ちや怒りを感じる。
ボクは顔を上げて、所長の顔を見た。中年太りの身体を夏仕立ての薄手の紺色っぽいスーツに包み、白いワイシャツに黄色の細かい模様を散らした紺色のネクタイを締めている。目の下や頬の下、顎に肉のたるみが見える角張った顔は、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべていた。
「清里のペンションで、ペンションの仕事を手伝わせてもらってました」
「清里? なんだって、またそんな遠くへ……。どうりで見つからないはずだ」
分厚く、大きな手のひらで自分の顔をひと撫でし、所長は言葉を続けた。
「なんていうペンションなんだ? 連絡先は? 君を疑うわけではないが、一応、確認をとっておかないとな。それに、いかにも家出とわかる子どもを、警察や施設になんの連絡もせず、手伝いに使っていたというのも問題がある。ひと言、言っておかないと。場合によっては、しかるべきところへ届けなければならないしな」
──カガリやベアさんたちに、迷惑をかけてしまうんだろうか。
ボクは一瞬、躊躇した。でも、ベアさんたちがボクにしてくれたことは間違ったことじゃない、そう思い直してボクは言った。
「ペンション『愛の巣』。電話番号は0551-48-XXXXです」
「『愛の巣』? ラブホテルかなにかか?」
電話に手を伸ばしながら、所長が吐き捨てるように言う。
──今はラブホテルなんて言わないよ。ブティックホテルとか言うんだよ。それに「愛の巣」はそんなんじゃないし!
と、心の中で反論しながらも、ボクも最初はうさんくさい名前だと感じたことを思い出していた。
「あー、こちらは養護施設の者だが、そちらの責任者を頼む」
電話に向かって、所長の横柄な声が響く。
なんでそんなに大声で電話しなくちゃならないのか。中年のオッサンが携帯電話や公衆電話で大声で話しているのを見るたびに感じていたことを、また感じた。
「ああ、あんたがそうか。当施設の入所者の藤代彬矢がそちらで世話になっていたというので、どんなようすだったか、聞きたいと思ってね。そもそもそちらはどんなペンションなんだね」
──電話の相手はカガリだ!
それはそうだろう。ペンションにかかってきた電話のほとんどは彼が取っているんだから。
腕に力が入って、手が握りこぶしをつくる。
「ああ、いや……ああ、怪しげなところでなければ。いや、その……。しかし、連絡くらいはしてしかるべきではないのかね。家出人ということくらいわかったのでは……」
最初は威丈高だった所長の声が、だんだん当惑したような調子を帯びてくる。
「……いや、しかし子どもを働かせるのは……。ああ、いや……はあ。…………え……あ、はい、まったくもって、そのとおりで……。あ、はあ、はあ。……いえ、その点は申しわけないと」
所長の声が尻すぼみに小さくなっていくのを、ボクは笑いたくなるような気分で聞いていた。
ボクがはじめの頃やられた、アレだ。まるで立て板に水を流すように、滔々とくり出される“正論”。カガリのアレに口をはさめる、あるいは反論できるのはよほどの人物だと思う。
「いえ。それは……ありがとうございました。いえ、こちらこそ監督不行届きで……申しわけございませんでした。はい。また日を改めて、ご挨拶に。いえ、そうおっしゃらずに。はい……はい。……はい、このたびは、これにて失礼いたします」
受話器を耳に当てたままお辞儀をし、電話を切った所長は、はああと大きく溜息をつくと、必死で笑いをこらえているボクのほうを見た。
「ここのオーナーは、頭のいい方なのかね」
「はい、たぶん。でも頭がいいとかよりもっと……いろいろなことを知っていて、考える人だと思います。……ボクの大切な恩人です」
「そうか」
所長は受話器を置いたばかりの電話を見ながら、ボソボソと話した。
「まいった。犯罪に巻き込まれ、医者から精神的外傷を診断されている未成年者に対して、なんのケアもせず、特別な処置もせずにいたことについて、痛烈に批判されたよ。『すべての子どもに、ただ一律のサービスを与えることが“平等”だとお考えなのか』と言われた。それに、彼にとっては身近だったはずの警察や施設に救いを求めなかった子どもに、警察や施設に連絡してなにができたか、かえって追いつめることになったのじゃないか、とも」
──ああ、カガリらしいなあ。
ぼんやり所長の顔を眺めていると、ふいに視線をボクに合わせて、彼は言った。
「藤代彬矢はよく働いてくれて、ペンションのスタッフ一同、感謝している、とのことだったよ。周囲に合わせて気づかえる子だから、それができず、考え込んでいるときには話を聞いてやってほしい。聡明だから、言葉できちんと説明すれば、きちんと理解できる子だ、ともおっしゃっていた」
イスから立ち上がって、立ったままのボクの傍まで来た所長は、笑顔で言った。
「君はいい人に出会ったんだな」
「はい。カガリやベアさんや南さんに、ボクは助けられました。みんな、ボクの大切な人です」
その言葉は、ボクの口からすんなりと滑りでた。
「そうか。ペンション『愛の巣』への行き方を教えてもらえるかな。明日にでも、御礼に行ってくるよ。……養護施設の業務は穴だらけで、税金の無駄遣いをしている、と訴えられないうちに」
苦笑しながら言う所長に、ボクはほんの数分前には微塵も感じなかった親近感を覚えていた。
──カガリのおかげかな。
「愛の巣」から離れてしまったけれど、ボクはまだカガリに守られている。
そんなふうに思うと、ちょっと不安だった養護施設での生活もやっていけるような気がした。
「今まで、すみませんでした。これからよろしくお願いします」
「愛の巣」への行き方を説明して、あらためてそう言ったボクに、所長は目を細めてうなずいてくれた。
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