音楽文化研究会・夏合宿前編

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音楽文化研究会・夏合宿前編

我が部活、音楽文化研究会の夏合宿がやってきた。5泊6日という長丁場なこの行事は、学園祭に向けた練習を集中しておこなえるということもあり、部として力を入れているメインイベントのひとつだ。部員は全員参加することになっていて、これは大学の軽音部としては珍しいのではないだろうか。そもそも「音楽文化研究会」と称しているだけあり、各自自分の愛する楽器、ジャンルやアーティストに対する研究に余念がないメンバーである。夏休みともなればアルバイトのない日は一日自分の部屋で楽器の基礎練習やら曲のコピーやらをしているような人々の集まりだ。彼らからすれば場所が合宿所に移っただけともいえるのだが、近くに仲間がいて、すぐにでも曲を合わせられる、というのは贅沢な時間なのであった。 と、それらしく語ってみたものの、大学で軽音デビューした紗英にとっては、実は軽音部やその部員の雰囲気やノリはまだまだよくわからない。 合宿初日の朝は、これぞ夏休みといった晴天に恵まれた。見た目には清々しいけれど、まだ暑さのピークを迎える前の時間とはいえ、大荷物を持って登校するのはなかなかにこたえる気温だ。人がまばらな校内を進み部室へと向かうと、既に到着していた部員達で賑わっていた。学校の授業よりもずっと早い時間の集合なのに、漂う空気は活気に満ちている。皆楽器以外に大きな荷物を抱えているのを見てホッとしつつも少し笑ってしまった。紗英たち一年生にとっては初めての合宿なので、要領がわからず荷物が無駄に多くなってしまったのではないかと心配していたのだ。5泊6日の日程は、絶妙に荷造りのしにくい長さだった。これから3年間かけて荷造りにも慣れてきたりするのだろうか。  無事全員が集合時間通りに集まると、校門前に迎えにきたバスに乗り込んだ。ここから3時間ほどバスの旅である。出発直後はいつも通学している街を大型バスの目線から見るのに熱中していたけれど、高速に乗ってしまうと徐々に景色は単調になっていった。この後の長い合宿に備えてだろうか、既に眠っている部員も多く、バスの車内は割合静かである。大して目に留めるものもない風景を見るともなしに眺めつつ、紗英はあの部誌のことを考えていた。もっと正確に言うならば、返事をくれる”匿名君”のことを、ということになるが。今のところ他に書き込む人がいないので、交換日記状態である。話の中身なんてないに等しいやりとりだが、他のみんなが知らないという状況が楽しくなっていた。秘密というものは誰かと共有すると途端に魅力的になる。紗英は他の部員には一切このことを話していなかった。恐らく、匿名君の方でも誰かに話したりはしていないのだろう。そのことを少し喜ばしく思うのだった。向こうも同じようにこの秘密を楽しんでくれているとしたら、それはとても素敵なことではないだろうか。どんなに知らん顔をしていようと、人はやはり「選ばれたい」のだ。一番になりたい、主人公になりたい、好きな人に、自分を選んでもらいたい・・・。紗英もまた、これから自分に特別なことが起こるのではないかと密かに胸を高鳴らせていた。折角の大学生活だ。とある事情からこの部活に入ったことを後悔したこともあったけれど、楽しくやっていけるかもしれない。そしてもしかしたら、一歩踏み出せるかもしれない。  宿舎に到着してバスを降りると、まずどこまでも広がる空の広さに圧倒された。大きく息を吸うと自然の匂いを含んだ豊かな空気が肺を満たした。皆バスの外で伸びをして、心地よさに歓声をあげている。 賑やかな声を聞きつけたらしい、合宿所のオーナーさんが外に出て迎えてくれた。部長の一声で集合して、オーナーさんに挨拶をする。先輩の中には「ただいま」と親しげに声をかけている人もいた。さほど大きくはない宿舎は2階建で、屋根の赤い色が少し色褪せているのが初めて来るはずの沙英にも妙に懐かしさを感じさせた。 全員でアンプなどの大型の機材を搬入した後、一旦解散となったので自分の部屋に荷物を持って引き上げてきた。テレビとテーブルがあるだけの質素な和室がこれまた絶妙な狭さで居心地が良さそうである。軽く荷ほどきを済ませ、メーリングリストで配信されてきた練習スケジュールを確認する。未だに部内の連絡にメールでやりとりをしているところが何かとお堅いところの多い我が研究会らしいというところか。社会人に向けた練習のためだという話を聞いた気がするけれど、真偽の程は定かではない。曲名の並んだタイムスケジュールを頭に入れる。 ここ、音楽文化研究会は他の軽音部とは違い、部内で特定のバンドを組むことがない。だから、タイムスケジュールにはバンド名ではなく曲名が書かれるのだ。ライブごとに曲数の枠が決まっていて、部員が挙げた候補の中から投票で曲を決めていく。そして選ばれた曲について、それぞれメンバーとパートを決めるというルールになっていた。パートは自分が演奏できるものに限られているので大方決まっているけれど、中にはマルチな才能を発揮して、ライブごと、特別器用な人は曲ごとにドラム、ギター、ボーカルとパートを転々とすることもあるのだとか。 「私、夕飯後まで出番なしだわ」 6日間のルームメイトである同期のるみ子も、同じくスケジュールをチェックしていたらしい。早速ギターを取り出して基礎練習を始めた。私も夕飯までは空き時間のようだ。さて、どうするか。幅をとるキーボードを部屋に置いておくのもなと思い、バンド練習をする広間に置いてきてしまっていた。コンパクトな楽器をうらやましく思いつつ、広間まで降りていくことにする。 1階まで降りていくと、広間の方からアンプを通した低く響く音が聞こえてきた。同じように早々に楽器に触りたくなった人がいるらしい。楽器の音が空気を伝わるとき、空気の密度を濃くするのだろうか。音の聞こえる空間というのは、適度な緊張感に包まれる。このピリっとした感覚が音楽の楽しみのひとつなんだよなあ、なんてしみじみ思ったところで、紗英はあることに気がついた。 「この曲は・・・」  一瞬、頭の中に過去の喧噪がよみがえった気がした。過去といってもまだ1年前のことだ。場所は高校の体育館。窓を閉め切り、暗幕が引かれた蒸し暑い空間に、ぎゅうぎゅうに押し寄せた生徒たち。ハウリングの音が興奮した若者達の歓声の合間を挑発するように駆け抜けていく。高校3年の夏の終わり。文化祭の最後を彩るのは後夜祭ライブだ。あのときもこの曲を聴いた。そして多分、あのときに演奏していたひとが、部屋の中にいる。あのひとの音は、いつだって紗英に忘れられない衝撃を与えた。今でもすぐにそれが彼のベースの音だと思い出せるほどに。扉の向こうの音と、記憶の中の音が一つに重なった。 「どうしたの、そんなところに突っ立って」 背後から声を掛けられ、慌てて過去の幻影を振り払う。 「ごめんなさい。先にどうぞ」 そこにいたのは3年生の田口先輩だった。すらりと背が高くて明るめの茶髪の似合う、部内屈指の人気者だ。ギターを背負い、手には大きなエフェクターボードを抱えている。横にずれて、手がふさがっている先輩のために扉を開けた。先輩が入ったのを確認してさあ閉めようとするも、扉が何かに引っかかって閉まらなくなったようだ。 「紗英ちゃんも中に入るんじゃないの?」 どうやら先輩が足で扉を押さえてくれていたらしい。強く押さなくて良かった、と内心ほっとする。そして流されるままに、広間の中に入ってしまってからまたはっとしたのだった。ここには、彼がいるのに。後ろでバタンと扉の閉まる音がした。 「おー、準備早いね」 「まあ、する事なかったんで」 少しだけ、と視線を上げたのが間違いだった。彼がーー廣田君が、こちらを見ていたのだ。わずかに驚いたように目を開いていたが、先に目を逸らしたのは廣田君だった。目が合ってしまえば、何か、期待をもってしまうのはわかっていた。話ができるんじゃないか、そう思いあがった自分が恥ずかしい。仕方ない、少し窮屈だけれど部屋へ戻って練習をするか。まだバンド練習の時間ではないけれど、先輩もいることだし、1年生の身分としてはここを使いづらい。楽器ケースを背負い、なるべく静かに出口へと向かう。 「紗英ちゃん!」 再び田口先輩に声を掛けられ、振り返る。 「良かったら、聴いていかない?」 担当楽器も、今組んでいるバンドも違う田口先輩とはこれまでそんなに話す機会は多くなかったけれど、これが合宿というものだろうか。思わぬ提案をされて面食らってしまった。 「え、お邪魔してはいけないですし」 どうしてこんな展開になるのだろうか。 「お客さんがいた方が緊張感出るし、紗英ちゃんの確かな耳でジャッジしてもらえれば、いい練習になるよ」 「いや、そんな。私何もわからないですよ・・・」 入部してから部内で演奏したのは一度きりだ。確かに音楽の経験はあったけれど、田口先輩と直接そのことを話してはいないはずだ。一緒に曲をやっていたのならともかく、ただ聴いていただけで新入生の個々のレベルまで把握しているというのだろうか。先輩というのは、無関心なようでいて後輩のことをよく見ているのかもしれない。 「せっかくの合宿なんだしさ、ね!」 ニコニコとした先輩の笑顔に負けて、頷くことしかできなかった。 程なくしてドラマーの先輩がやってきた。廣田君以外はみんな2・3年生だった。既にその実力が認められて先輩に誘われたのだろう。ギター、ベース、ドラムの3人というシンプルな編成だ。サウンドチェックを済ませるとそれぞれ田口先輩に向かって頷いている。田口先輩は答えるように最初の音を鳴らした。ギターのみの前奏が終わり、バンドが入ったところで、ああ、やられた、と私は完全に白旗を振っていた。なんてかっこいいのだろう。完全に心を掴まれてしまった。廣田君の芯のある艶やかなベースと、重心の低い、安定感のある先輩のドラムは、非常に相性がいいようだ。そして田口先輩のギターは、高貴でありながら、空間を切り裂く雷鳴のように見る人に衝撃を与える音だ。きっちりと受け止める土台があって、その上をギターが駆け巡る。各々が自分の立ち位置が分かったうえで音を出しているからうるさくならずに音の厚みを出すことが出来るのだ。 彼らが演奏していたのは、ボーカルの入らない、インストゥルメンタルの曲だった。歌が入らない分演奏をしている3人の音が際立っている。後から、田口先輩が敬愛するギタリストが手がけた曲だということを知った。誰かの演奏を聴いて、聴かなければ良かった、なんて思うのは初めてのことだ。こんなに近くで素晴らしい音を浴びせられてすっかり参ってしまった。 「どうしたの、何も始まってないのに疲れた顔して」 部屋まで戻るなり布団へダイブしたところをるみ子に見咎められた。布団は合宿所に到着して即座にるみこと2人で支度していたのだった。まさかここまで早々にお世話になることにはなるとは思っていなかったけれど。ギターを弾く手を止めて、紗英の様子をしげしげと眺めている。意気揚々と部屋を出ていったのだから不思議に思うのも無理はない。それに、彼女の言うことはごもっともだ。合宿に来てからまだ一度も鍵盤にふれていない。そして今、無性にピアノが弾きたくてしょうがない。 「雷に打たれた感じ」 ばっと起きあがって、寝転がっていたスペースを自分の相棒のためにあけることにする。私も、彼らのように聴く人の心を捕らえる演奏ができるようになるだろうか。  合宿初日の夜は決起会という名の飲み会がある。出発前に大量に買い込んでいたお酒やらおつまみやらが初日から大盤振る舞いでテーブルに広げられている。日中は引きこもって練習で、夜におやつまで食べていては6日後に大変なことになっているのではないだろうか。ちらっとそんな不安が頭をよぎるが、好きなお菓子を見つけると手が伸びてしまう。 「初日お疲れさま。観客役もどうもありがとうね」 乾杯のあと、るみ子は曲のメンバーに挨拶してくると言って早々に席を立っていった。律儀なるみ子を見習うべきかとも思ったけれど、各々の好きなお菓子を確保した席をキープしておきたい。ぼんやりしつつそのまま待機することにした。すると、空いた席にさっと田口先輩がやってきた。 「お疲れ様です」 「演奏、どうだったかな?」 演奏直後は、心ここにあらずでお礼を言って練習部屋を出てしまったのだった。今だって本当は何を言ったらいいか分からない。なんとか、当たり障りのない言葉を探し出す。 「良かったです。音がまとまっていて、相性のいいメンバーなんだなって思いました。あと、先輩の音色も衝撃的というか」 「ありがとう。紗英ちゃんに褒めてもらえると頑張り甲斐があるな」 「そんな、気の利いたこと何もいえなくて」 間近で微笑まれると、条件反射的に顔が赤くなってしまう。 「ううん。いきなりごめんね。紗英ちゃんは初めから自分の音をもっていて、どんな風に音楽を聴いているのか気になったんだ」 自分の音、という言葉が出てきたことに驚いた。 6月8日 演奏良かったです。電子楽器であっても、自分の音が鳴らせている感じ。 繰り返し読んだあのメッセージが浮かぶ。先輩が匿名君の正体ということはあるだろうか。 「先輩、あの・・・」 ん?と首を傾げる田口先輩。いや、いきなり匿名君の正体ですか、なんて聞けない。ふるふると首を振り、何でもないです、と曖昧に笑ってごまかす。そもそも、同じ部活の部員であるのにわざと名前を伏せて会話をしているというのはどういうことなのだろうか。単に私が聞かなかったから名乗るタイミングがなかったのかもしれないけれど。なんなく、こちらから探りを入れるのは良くないような気がした。ちょっとした謎をもう少し楽しんでいたいというのもある。
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