音楽文化研究会・夏合宿前編

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 高原の朝はしっとりとしている。    自分の部屋とは違う場所だと眠りが浅くなるのか、普段は起きられない時間に目が覚めた。カーテンを開けると、しんと静まりかえった景色がうっすらと霧に包まれている。肌寒いくらいで、昨日まで都会の暑さの最中にいたのが信じられない。せっかく目が覚めたのだから、と思い立ち、着替えをして軽く身支度を整えた。家にいたら迷わず二度寝するところだが、まだ初日の興奮を引きずっているみたいだった。楽譜を手に練習部屋へと向かう。  朝日に照らされた楽器達に迎えられ、はっと息をのんだ。いつもは窮屈な部室に押し込められているドラムやアンプが、伸び伸びと輝いて見える。一際目を引いたのは、部屋の奥にあるグランドピアノだ。これはもともとこの部屋に置かれているものである。皆自前の楽器か部のキーボードを使っているので、バンド練習では使われていない。調律はしてあるのだろうか。他の人たちはまだ寝ている時間だけれど、扉を閉めていれば少しくらい弾いたって平気だろう。そっとふたを上げて鍵盤に触れてみる。ひんやりと、吸いつくような肌触り。これは、電子のキーボードにはない感触だ。指先から響きが広がっていくのが感じられる。両手を握って開いて、を何度か繰り返す。指の先まで血が巡り、それによって思うままに指を動かすことができるようになる。深呼吸をして、意識を整える。曲を弾き始める時は、いつも川の流れを捕まえるような感覚だ。この流れをちょうどのタイミングで捕まえないと、ぴんと筋の通った演奏にならないのだ。  す、と一呼吸。指を一瞬浮かせた後、狙うは最初の音。思い描いた、まさにその場所で音を捕まえる。その次からは楽器の余韻が後ろから追いかけてくるのに耳を澄ませていれば迷わず進んでいける。鍵盤を離れた音は、朝の光に乱反射してますます輝きを増す。そして、最後の音は、ティンカーベルが去った後のような儚い光を一瞬放ったかと思うと明るい窓の外へと逃げていった。  夜な夜な自然発生的に開催されていた飲み会も、合宿の折り返し地点に来る頃にはこぢんまりとした会になっていた。練習以外にすることがないとはいえ、練習漬けの合宿生活はそれなりに体力が必要なことがわかった。みんなと音楽談義をするのが楽しくて、お酒も飲めないのに毎日飲み会に顔を出していた紗英も、今日は参加せずにそっと外へ出てきた。疲れているというのもあったけれど、お風呂にも入り、寝る準備は万端の状態で外に出てきたのには訳があった。宿舎の前の一本道を少し歩くだけで、近くに建物がないためにあたりは真っ暗だ。しっかり長袖を着込んでいてもやはり外はかなり涼しい。林の向こうに走る道路の街灯がかすかに見えるくらいで、他に明かりはない。絶好の観測スポットだ。紗英はちょうどこの時期にある流星群が見られるのではと楽しみにしていた。まだピークの日ではないけれど、この環境ならいくらか見られるのではないかと思ったのだ。高原の天気は曇りがちだったが、今夜は雲が少ないと見るや、張り切って外に飛び出してきたのだった。案の定、頭上では星々がこれでもかと輝きを放っている。数えきれない星々から目が離せなくなった。 じゃり、と少し先のほうで何かが動く音が聞こえた。息を潜めて音のした方へ目を凝らす。自然に囲まれたここでは、かすかな音が日常の数倍は大きく聞こえてくる。心臓がばくばくいっている音がやけに耳について、さらに恐怖心を煽る。砂を踏む音がこちらに近づいてくる。 「あ・・・」 思わず声がでてしまって、慌てて両手で口元を押さえる。音の正体は廣田くんだった。心臓のばくばくは、止むどころか私を追いつめるように勢いを増しているようだ。 「幽霊でも見たような顔してどうしたの」 「あの・・・」 だって、暗闇の中から突然現れたりしたら、誰だってなにかよからぬものがでたと思うのではないだろうか。そんなことを考えてはいても、実際に言えるような状況ではなかった。 「ごめん、ちょっとからおうとした。いきなり驚いたよな」 こくこくと頷く。この部活ではほとんど会話をしてこなかったのにいきなり自然に話しだした廣田君についていけていないでいた。それを知ってかどうか、私がろくに返事もできていないこともお構いなしに話し続けている。 「今日あたり、流星群が見れるんじゃないかと思ってその辺をうろうろしてたんだ」 わたしも。そう言おうとしたのに思いの外小さな声しか出ずに、もごもごとうなっただけのようになってしまった。恥ずかしくて、かーっと顔が火照る。この暗さだから見えてはいないと分かっていても、今はこっちを見ないでほしい。そんな願いも届かず、廣田君はよく聞こえるようにと屈んでくれた。 「わたしも、見に来たんだ」 折角話すチャンスが巡ってきたのに、こんなのあんまりではないか。誰がこんなうじうじしたやつと話したがってくれるだろうか。情けなくて、こんな自分がいやで、俯いて無意味に自分のつま先を見つめてみる。 「お目が高いね」 「どうして・・?」 「ほら、見上げてごらん」 さっと、いくつかの光の筋が夜空を駆けていく。 かすかな光は、周りに輝く恒星たちと比べて弱々しく、イメージしていたものよりも地味だった。けれど、それがかえって本物であるということを実感させるのでもあった。 「これを見ないなんてみんな人生損してるよな」 今度は流星を目で追うのに夢中で黙って頷くので精一杯だったが、そのことも気にならないほど真上で繰り広げられる天体ショーは素晴らしかった。 朝食前に広間に行ってピアノを弾くことが何となく日課になっていた。といってもたった3日続いただけだし、きっと家に帰ったらやらなくなるだろうから、合宿期間限定の日課というところだろうか。やはり部室の数倍は広い部屋を堂々と独り占めできるのが魅力である。朝から満ち足りた気分で広間を出ると、廊下のソファーのところに見覚えのある後ろ姿があった。うっすらとでも化粧をしていて良かった、なんて思いつつ、近づいてみる。大丈夫。昨日は少しだけれど話すことができたのだから。自然におはようと言える。どきどきとうるさい鼓動も、昨夜のように襲いかかってくることはなく、わたしの歩調に合わせてくれている気がした。 覚悟を決めて力強く一歩を踏み出した足は、しかし、あっけなく止まってしまった。こちらに背を向けている廣田君の向かい側に、人がいたのだ。3年生の百瀬楓先輩だ。会話の内容は分からないが、二人の笑い声が聞こえてきてそのまま進むことができずに戻ってきてしまった。おはよう、たった一言の短い挨拶でも、廣田君に自分から声を掛けるということが大きな試練であり、同じだけ大きな望みでもあるということは、他の誰にも想像のつかないことだ。他の人がいたって挨拶くらいすればいい。普通に考えればそうだけれど、廣田君相手ではどうにもわたしは普通に振る舞えないのだ。 「あれ、紗英ちゃん?」 本当にこのパターンが多いな、と思いつつ振り返る。いつも明るく、爽やかに話しかけてくれる先輩のことは尊敬しているけれど、今は少しタイミングが悪かったかもしれない。 「おはようございます」 ちゃんと笑顔になれているか自信がなく、大げさにお辞儀をした。 「ふふ、偉いね。もう練習するの?」 「あ、いえ。楽譜を取りに・・・」 否定してから、もう終わった、言うとまた広間に行こうとしているのが不自然なことに気づき、慌てて付け足した。 「どっちにしろ偉いや。朝からしゃきっとしてるし。俺なんか、まだ半分眠ってるくらいなのに」 ふわ~、と成人男性とは思えぬかわいらしい声であくびをする田口先輩。ふと、眠いのになぜ起き出して広間へ行こうとしているのか疑問に思った。けれどもすぐにその疑問も吹き飛んでしまった。 「そういえば、紗英ちゃんて、和宏と同じ高校なんでしょ?」 先輩の口からその名前が出てくると思わず、びくりとしてしまった。先輩は廣田君達がいた廊下とは別方向から来たようなので、二人がいたことを知らないはずである。となると単なる偶然だろう。気づかれないように深い呼吸を一つ。よりによって今このタイミングで廣田君の話になるなんてなんという巡り合わせだろうか。 「あ、はい。そうです」 「やっぱり、高校の時から上手かったの?」 音楽の話なら今でもできそうだ。ただ、先輩からしてみても廣田君のベースは特別なのだな、と思うと心がギリリ、と痛みを主張した。
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