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プロローグ
僕はただ、彼女の涙をかき氷にして食べてしまいたいだけなのかもしれない。
「ごめんなさい。いきなりこんなこと言い出して」
日中、燦々うるさく照り付けていた陽の光が、まるで誰かに叱られたみたいに落ちていった午後六時半過ぎ。辺りは仄暗い闇に包まれ始め、涼しげな香りがぼんやりとした風に混じる。この匂いは、いつも僕の鼻腔をノスタルジックに突いた。自己の人生が青春の真只中に位置していようと、僕はこの夏の夜風だけで郷愁を感じることができる人間だった。
校則指定の白いサマーセーターを身に纏った詩乃綺羅子は、僕の左隣でブランコに腰を下ろし、揺られることもないまま地面にしっかりと両足を着地させている。
綺羅子が履いているブラウンカラーのローファーには、擦り傷一つ付いていなかった。一方で僕は、ネクタイを解き、袖を捲ったワイシャツをぱたぱたと扇ぎながらブランコをゆったりと漕ぐ。その度に、フックとハンガーの錆びた金具面は、擦り合わさって異音を鳴らしている。
綺羅子の言葉に対し、「ううん、平気だよ」なんて口では言ってみたが、綺羅子が泣いているわけを理解する術を、僕は全く持ち合わせてはいなかった。どうにも蒸す夜のせいか、綺羅子の唐突な告白のせいか、僕の背中にはどっと汗が噴き出している。
「おかしいよね、紗季に話すことじゃないよね」
「僕に話さなかったら、誰に話すのさ」
「それも、そうだね」
白いハンケチで頬を伝う涙を拭い、ほんのりと、丁寧に笑う綺羅子。
さっきまでしつこく鳴いていたアブラゼミの声が聴こえなくなったのは、眼前にそびえ立つ樹木の足元に、死にたての蝉の亡骸が転がっていることに関係しているのだろう。
こんがらがっていく頭の中で、僕は必死にかき氷を食べる想像をした。透明な容器に、山のように盛られ、その頂上から垂らされるシロップ。この際、味や色合いはなんだって良かった。どうせ目隠しをして鼻を抓んでしまえば、かき氷シロップなんてどれも暴力的な甘味にそう違いはない。必要なのは、砕かれた氷を僕の身体に流し込むという作業だった。僕は人間だから、それをしなくてはいけない。こめかみがきんと冷えて痛むほど、僕は今、冷静にならなければいけない。だけど、さほど胃が強い方ではない僕は、かき氷をたくさん食べたらお腹を壊してしまうと思う。最悪の場合、下痢を引き起こすかもしれない。それでも今は、彼女の涙をかき氷にして食べてしまいたかったのだ。
「綺羅子」呼びかける声は、出来るだけ優しさを含んだものにした。
「うん?」穏やかで生ぬるい風が、綺羅子の甘髪をひゅうひゅうと吹き梳かしていく。高校から徒歩数分の小さな記念公園に植えられた電柱のぱちぱちとした不安定な灯りが、綺羅子の端正な顔立ちを斜め上から照らしている。泣き腫れた表情すら美しい人がこの世にいてくれることが、僕はやはり嬉しかった。
「姉の言葉なんだけど」
「うん」姉という単語を聴いて、綺羅子は一度、鼻を啜った。
「『私を形成するのは、私以外の人間と、それら全ての事象でしかない』らしいよ」
綺羅子が僕の言葉を上手く聴き取れているか不安で、僕は全く同じことを二度繰り返した。姉の言葉をそのまま引用したので、一人称は「私」のままになってしまった。理解できるかは別として、綺羅子の聴覚は、三年前に死んだ姉の遺言を捉えることはできたみたいだった。僕が姉にまつわる話をするのは、実に一年ぶりのことだ。
「つまりね、自己は所詮、空っぽのラムネ瓶みたいなものなんだ。心臓と呼ばれるビー玉は、出口を見失って孤独に瓶の中を転がっている。そこへ、他者が様々な液体を注ぐんだ。色も味も違う、炭酸やアルコールのような、本当に多様な液体が混じり合って、私という一本のラムネ瓶は完成する。その過程を僕らは成長と呼び、それこそが、大人になるということなんだ。だから、綺羅子が他人と真摯に向き合い、痛みを覚えて涙を流すことは、実に人間らしくて当たり前なことだよ。でも、他を受け入れるということは、とても不安なことでもあるんだ。空っぽのラムネ瓶は、出何処不明の液体が自分の中に流れ込んでくることを畏れている。だから最初はちょっと不気味で、不愉快で、涙もそれに合わせて必然と溢れてくるはずだから。でも、いつか慣れるよ。僕らはいつか、他に侵され、他を受け入れ、他有り気で形成されていく。空っぽな僕らは、結局他に依存して生きているから」
それっぽいことを言ったが、僕は姉の言葉の真意を、未だに見つけられないでいる。
僕が中学三年の頃、あれは二〇一三年六月六日の正午を過ぎたあたりの話で、姉は二十四歳という若さをもってして、この世から出し抜けに去っていった。
九つも歳が離れていた姉は、僕の物心が付いた時から、不可抗力的に「姉」として僕の世界に存在しており、望んでもいないのに、僕はその人物と姉弟であり、家族であった。
一般的な姉弟の距離感なんて知らないし、興味だって少しも湧かないけれど、多分僕と姉は比較的善い関係だったと思う。仲良し、なんて軽率な意味ではない。僕は姉を心から尊敬し、姉もまた僕を信頼してくれた。僕は常に姉に対しては敬意を払っていたし、それと同じくらい、僕が持たざるものを全て持つ姉の人間性に畏怖していた。
僕と姉の似ている部分なんて、笑った時にうまれる目の皺の形と、姉の趣味に影響され、志磨遼平の作る音楽が好きなところぐらいだろう。あとは、血だ。
僕にとって姉は、同じ屋根の下で家族として暮らしながらも、全く別世界に生きる人間のように思えた。姉はよく賞を貰う人だった。姉の部屋には、小学生時代に公募したポスターコンクール――「未来の水族館」「春の交通安全週間」「カワセミの生態系を守ろう」等の実に教育的な内容のものが多かった気がする――で貰った賞状の数々や、中学・高校と陸上部で長距離の代表選手時代に獲得した国体入賞トロフィー、大学生で「二十歳になるということ」という大手出版社が企画した短い作文コンテストで受賞した最優秀賞記念品の盾などが飾られている。
両親は姉を日頃から褒め称えていたものの、姉の優秀さ故に僕が家庭内で侮蔑的な扱いを受けることはなかった。そもそも九つも歳が離れていれば、僕と姉を比べることなんて野暮だと両親はわかっていたのかもしれない。母譲りの整った容姿と、当たり前のように国立大学へと進んだ姉の彩色兼備さのおかげで、家族は家族でいられたのかもしれないと今は思う。
姉は友達も多かった。僕は姉の友達とよく遊んだ。姉が高校生の時分、僕は小学校低学年ぐらいだったし、姉が連れてくる物腰の柔らかいハンサムな彼氏は、僕にとっては親戚のお兄さんみたいで、トレーディングカードゲームを一緒に対戦してもらった。
僕が中学生になると、姉は既に就職していた。就活や受験で姉が苦労している様を僕は見たことがない。夜なべをし、机に齧りつきながら受験勉強をしている姉の背中を僕は知っているが、僕にはそれが、努力や苦労を重ねているようには見えなかった。僕にとって姉が何かに勤しんでいる姿は、奮励する姿をどうにか頑張って生み出しているだけに見えて、そんな様子を見かける度に何とも不思議な気持ちになった。
姉は第一希望だった最大手の保険会社へ就職が決定し、それからはトントン拍子で一人暮らしを始め、その頃にはもう完全に自立しきって、姉は僕の姉ではなく、一人の大人になってしまったようで淋しかった。
そんな順風満帆に人生を謳歌していたはずの姉も、結局は自殺をした。家族で内覧へ足を運んだ、会社近くの小綺麗なアパートの一画で、首を吊っていた。遺書もなく、あまりに呆気ない最期だった。葬儀の合間、僕は実感が追い付かずに少しも泣くことは出来なかった。むしろ、怒りすら覚えた。ずっと信頼していた姉が、この世界から誰の許可もなく勝手に姿を消して、そのせいで僕ら大矢一家のバランスは次第に崩れていった。
姉の死後、母は酷く狼狽し、軽い鬱を発症した。父は、娘を失ったせいか、以前のような良い父親ではなくなった。父親の帰りが遅い日が増え、そのせいで母親は更に気を病んだ。大矢家は、父親と母親と僕という関係から、男と女とその間に生まれた男でしかなくなってしまった気がした。そんな気がしていたら、姉の死後一年で、両親は離婚し、父親は鬱の母親に養育は任せられないと僕を引き取った。気がしていたのではなく、そうなっていたのだと僕は知った。
姉の自殺で、僕は死について考えた。頭が破裂するほどに思考を重ね、死に対する己の価値観をひねり出したかったからだ。その作業はまるで濡れた雑巾を絞るかのように惨めで、姉を想うと、両の眼から脳漿がぽたぽたと垂れ落ちた。そんな苦労の上で、僕が若干中学生で導き出した死への回答は、無だった。死は何も創造しないし、死から派生するものはうんざりするものばかりだった。そこにはロマンスやドラマチックでは片付けられない退屈が横たわっていた。
しかし、姉の死は無ではなかった。姉が自死をするということは、無ではなく完全な悪だ。不正解だ。僕にとってその回答は揺るがないもので、姉の自殺の理由が判明しない今も、僕の中で、姉の死は不正解のままである。
自殺をした姉を、僕は嫌いになった。僕にとって死は裏切りだった。いっそのこと、全て理由を話して、姉が死へ突き進むのを止める機会を僕に与えてくれてもよかったはずだ。それでも姉が死を望むなら、いっそ僕を連れて行ってくれればよかった。それなのに、僕が一番尊敬していた人物は僕を置いて、世界でたった一人の弟を捨てて勝手に死んだ。
首を吊る三日前に、僕は姉と数十分だけ電話をした。ありふれた世間話だったが、社会人になってからより多忙さを極めていた姉から連絡がきたことが、素直に嬉しかった。僕はそこで、友人のこと、恋のこと、夢のこと、愚痴、趣味、色々なことを姉に話した。姉は楽しそうに僕の話を聞いた後、〈私を形成するのは、私以外の人間と、それら全ての事象なんだよ、紗季〉と言って電話を切ったのだった。
「紗季は大人だね。私には難しいな」
難しいと言いながら、綺羅子は僕に優しく笑いかける。その微笑みで、汗ばんだ額から水分がすっと引いていく。綺羅子がブランコから身体を剥がして、僕の目の前に立った。逆光で陰る表情の意味を、僕は探すのをやめる。
「僕は大人なんかじゃないよ。卑屈なだけだ」
「大人だよ。私は、紗季のそういうところ、素敵だと思うよ」
その一言で、僕の葛藤は差し出がましいものへと変わってしまう。
人を愛すると、常に平静さを乱し、狂い、足元が軽くなる。僕は弱く、脆い人間なのだ。
「ありがとう、綺羅子に言われると嬉しいよ」
精一杯の返答に、再び綺羅子は頬を綻ばせた。
「紗季が私の傍にいてくれてよかった」
綺羅子の透き通った声が心に浸透していく。僕は、向こう正面に差し出された白くて華奢な指先をそっと掴んだ。僕の手を、綺羅子の手がふわりと包み込む。このまま時が止まれば、僕は幸福だった。愛が、じんわりと身体を溶かしていく感覚があったからだ。
「私を形成する一部に、紗季はいるのかもね」
それは、雲一つない夏夜の話で、弓なりに曲がった三日月は、腰を下ろせそうなほど綺麗な形をしていた。僕も綺羅子も、それ以上何も言葉は交わさなかった。
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