不遣の雨

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不遣の雨

「おととい来やがれこのインポ野郎!」  女のけたたましい叫び声の後にべちゃりと何かが地面へ落ちる音、荒々しい勢いで閉まる合板ドアの膨れた様な音、ウルセエあばずれ女と罵り返す(しわが)れた男の怒鳴り声が続く。  喧噪が止むと、雨が止んだばかりの狭い路地にいつものくすんだ静けさが戻ってきた。アパートの二階から地面に投げ落とされたのは、進物用の折箱に入ったいくらの塩漬けだ。男が女のご機嫌伺いに持ってきたのだろう。ひしゃげた折箱から飛び出したいくらの粒は、大半が朱色の血飛沫をあげて無残な厨芥(ちゅうかい)と化している。  ああ勿体無いと小さく呟いて、青年が地面にしゃがみ込んだ。舗装しきれていないアパート前の路地は、雨を含んだ泥と砂利だらけだ。彼はまるで宝石を摘まみ上げるかの様に一粒ずつ、砂利塗れのいくらを拾っていく。砂利の感触に表情を変える事無く、いくらを拾っては黙々と口に運び続ける。  青年と言うには若くも見え、かと言って少年の時期はとうに卒業しているのだろう。綱を渡る軽業師の爪先ほどにも繊細なかんばせが、鬱陶しいほど伸びた黒髪から覗いている。彼の名は高瀬直樹。ある男に車で送られた帰りだった。 「直樹! そんなとこで道端のもん食ってないで酒でも買っといで!」  再びアパートのドアが開き、先程の女が彼に怒鳴りつけた。 「分かったよ母さん」  直樹は残ったいくらをサンダルの裏で潰して砂利と一緒に路地の隅へどかすと、母さんと呼び掛けた女の言いつけ通り、酒屋へ向かった。  直樹には父親が居ない。男と酒が切れると決まってヒステリックになる母、克子ですら父親の心当たりは無いと言う。小劇場でストリッパーをしていた時に出来ちまったんだよ、その所為で仕事も干されてサァ。あんたが居たから何にも出来やしなかったと酔っぱらっては愚痴る母の介抱をしながら、直樹は自分など捨ててくれて良かったのにといつも思っていた。  それをしなかっただけ克子にも人の心があったのさと慰めたのが、直樹が月に一度抱かれに行く男、雑賀だった。  雑賀は克子の姉の夫、つまり直樹にとって義理の伯父に当たる。義理とはいえ伯父と甥の関係である雑賀と直樹が肉体でも関係を結んでいるとは、流石の克子も知らない。   雑賀が運転する小型のセダンに乗せてもらい、ラブホテルなどという今風に改装したばかりの連れ込み旅館で数時間を過ごしたのちアパートの近くで降ろされて、 「まだ小雨が降っているから気を付けて帰れよ」 「伯父さんも運転には気を付けて」 「ああ。じゃあな」 「うん」  味も素っ気も無い、勿論妊娠の心配も無い、欲を引き換えるだけの関係。伯父と甥の裏側では、そんな因果のドブ川が静かに臭気を放つ。  勿論直樹にだって分かっていた。その臭いが溢れる前に砂利で埋めてしまわないといけない事くらい。朱色の液体を撒き散らしたいくらは、明日の自分だ。そう思いながら先月も今月も雑賀の車に乗り込んだ。恐らく来月も、呼ばれれば雑賀に抱かれに行くのだろうと直樹は思う。  三年前、初のオリンピック開催に沸いた東京の街で、一作のお色気映画が話題となった。その映画を撮ったのが雑賀である。以降、雑賀がメガホンを取るお色気映画はヒットを連発し、「ピンク映画」なる言葉も生まれるなど世間から注目を浴びている。雑賀自身も、会社から独立して自分のプロダクションを立ち上げるまでになった。羽振りもそれなりに良いらしい。 「もちっと良いのに買い替えてえんだけどなあ、車。カミさんが許してくれねえんだ。こんなに稼いでんのにさ」  と、雑賀はエンジンを掛ける度にそう直樹にボヤく。 「伯母さんそういうところちゃんとしてるから。新しい車、買えるといいね」  四十をとうに超えた義理の伯父を宥めれば、「俺に優しいのは直樹だけだ」と太腿を撫で(さす)られた。  ずるずるとこの関係を続けているのはどうしてだろう。そもそも伯父さんとこんな風になったのは、いつからだったか。  そんな事を思いながら直樹は商店街を歩き、目当ての酒屋に入る。いつもの安い酒を買い求め家路に着こうとした時、さっき止んだばかりの雨が再びぱらつき出した。まだ余裕で帰れる雨足ではあるけれど、直樹は歩き出すのを止め、酒屋の軒先に出来た小さな雨溜まりに目を遣る。  ストリッパーをしていた克子が、幼い直樹を抱えて同じく踊り子上がりの姉の元へ転がり込んだ頃。そのストリップ劇場で演出をしていたのが雑賀だった。  現役を引退して踊り子達の世話をしていた伯母には、雑賀も何くれと面倒を見てもらっていたそうで、だから未だにカミさんには頭が上がらないのさ、と雑賀は笑う。  伯母は雑賀と結婚後、雑賀の稼いだ金を元手にスナックを経営している。「いつ雑賀がクビになるか分からないからね」とは、いかにも伯母らしい弁だ。しっかり者の伯母は、飯もろくに作らず酒ばかり飲んでいる妹の息子をいつも気に掛けてくれている。それが直樹にとっては有難くも気まずい。何せ、伯母さんの旦那を寝取っているのは自分なのだから。  克子が日がな一日飲んだくれるのも因果と言えば因果だ。ぽたりぽたりと酒屋の軒先から滴る雨垂れを手で払い除けながら、直樹は伯母から聞いた話を思い返す。 『雑賀は映画監督になりたいってずっと言ってたんだけど鳴かず飛ばずでね。試しに克子をヌードモデルにしてお色気映画を撮ってみたら、それが会社の目に留まって、そのお陰で万年助監督から抜け出せたのよ。そっから雑賀はピンク映画専門監督なんて呼ばれる様になってね。だけど克子の方は昔っから負けず嫌いでさ。周りの女優と喧嘩ばっかりしちまうもんで、雑賀も流石に手を焼いちゃって。何本か出演させてみたけど、それっきり』  けれど、実の姉ですらお手上げだと言う自分の母を、直樹はどうにも恨み切れない。克子は美人だし身体も綺麗だ。踊り子だけあって演技力もある。直樹という枷の所為で、いつもドブ川から這い上がれずにいるだけだ。  直樹が母克子の出演した映画を見せられたのは、雑賀の自宅へ晩飯に呼ばれた時の事だった。テレビでは、イギリスの人気ロックバンドが来日したとか言うニュースをやっていた、そうだ去年の出来事だ。  直樹の分までご飯あるからおいでと迎えに来られて、直樹は言われるがまま雑賀の車に乗り込んだのだ。  伯母さんは店に出勤していて、家には居なかった。その日初めての食事を口一杯に頬張りながら、母に対する思いを雑賀に打ち明けたのを直樹は覚えている。伯母さんにはなんだか話しづらくて、今まで口に出した事は無かった。 「なんで僕なんかを産んだんだろう。産まなきゃもう少し母さんの好きに生きられたのに」  雑賀は何も言わず、米粒のこびり付いた茶碗へ温くなった茶を注ぎ、飯を足してくれた。直樹が茶漬け飯も綺麗に平らげている間、雑賀は一本のフィルムを準備していた。 「直樹、おいで。克子の映画を見せてやろう」  いつでも映像のチェックが出来る様にとの理由からか、雑賀の自室は薄暗かった。直樹にははっきりとした理由は分からない。エロティックな本や小道具の積まれた畳に座れば、壁にぼんやりと映し出される小さな映像が、(なま)めかしく動き始めた。 「克子のプロモーション用に撮ったやつさ。演技は良いんだ、撮り甲斐がある」  フィルムの向こうにいる克子は、生き生きとして色っぽく、普段の母とは全く違う表情をしていた。これが本当の母なんだろうと直樹は思った。 「母さんは可哀そうな人なんだ、分かってる。女優になる夢を捨てさせたのは僕だから」 「いいや、そうじゃない」  映像が終わっても部屋は薄暗いままだった。 「克子にも人の心があったのさ。女優を捨てたかないが子供も捨て切れん。可哀そうというより不器用なんだろうよ。どうにかしてやりたいが、俺もまだ独立したばかりで仕事を切らす訳にもいかん。俺が偉くなるまでもうちょい辛抱してくれ、な」  隣に胡坐をかいた雑賀は、直樹の肩に手を伸ばした。  ああそうか、その時直樹は悟った。母さんの夢を叶えるのに、きっと僕の身体が役に立つのだろう。安いものじゃないか。 「直樹、すまん。これじゃあお前の弱みに付け込んでる様なもんだ。いやらしい男だろ、俺あ」 「どうして? 伯父さんの事をそんな風には思っていないよ」 「そうか。直樹は優しいなあ、正太郎にそっくりだ」 「正太郎?」 「俺の初恋の男さ」 「そっかあ」  きっと、僕にその正太郎という人の面影を重ねているのだ。伯父さんもまた因果な人生を送っている。狭い畳の上に押し倒された直樹は、肌を(まさぐ)られる慣れない感触に、ぎゅっと目を瞑った。  あれから一年経つのか。ふと見ると、酒屋の軒先から滴る雨粒はどんどん勢いを増していた。今更走って帰ったところでどうしようもない。直樹はゆっくりした足取りで、灰色の雨の中を歩き始めた。  直樹が歩くのはドブ川の臭いがする雨の中。雑賀は毎月、初恋の人を車に乗せているつもりなのだろう。どんなに雨が降ろうとも直樹を振り返りはしない。直樹もそれで良いと思う。母さんが女優に戻れる日まで伯父さんに抱かれるだけの、至極簡単な話だ。  直樹の身体は、今日も砂利に埋もれてドブ川に流されて行く。  終
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