阿呆の恋

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阿呆の恋

 俺たちの官能映画はこれだ! 雑賀監督、受賞作を語る  本日は、1964年今年の官能映画賞に「淫らな尻たぶをひらく夜」で見事受賞されました雑賀益次監督から、いろいろとお伺いしたいと思います。雑賀監督、改めまして受賞おめでとうございます。 雑賀「ありがとうございます」  オリンピックに沸き立った日本において、我々の股間も沸き立ったわけですが、今日は受賞作、「淫らな尻たぶをひらく夜」の制作秘話や、監督がピンク映画で一躍有名になるまでのお話などを聞かせていただきたいと思います。 雑賀「そんな大層なエピソードはありませんがね。まあよろしくお願いします」  今回の作品は、六年間構想を練った渾身の作品だと伺いました。監督の中で何か思い入れがあるのでしょうか。 雑賀「思い入れと言いますか、心にずっと残っているものがあって、それをマサコに投影させてみたんです」  マサコが両の手で自らの尻たぶをひらくシーンは、思わずごくりと息を飲みましたよ。 雑賀「ありがとう。そこが今回の映画のキモなんですよ。ご覧になられた方に伝わればいいですが」  監督の心にあったものを投影させたとおっしゃいました。この映画へたどり着くのに六年。監督の心にあったものを教えていただけますか。 雑賀「まあ言ってみれば自分の話になるんですけれどね。よくある話ですが昔、恋人にいなくなられた思い出がありまして。ああいやいや。今はもう奥方一筋ですよ。その時は、心にぽっかり空いた穴を幾枚もの絆創膏で重ねても重ねても血が滲み出てくるような気持ちを持っておりました。六年かけてようやく絆創膏をそうっと剥がしてみたところ、良い感じの瘡蓋になっていましてね。ああ、これこそ官能だなあと思ったわけですよ。それでメガホンを取ってみたら、いいものが出来た。俺の撮りたかったものはこれだってね」  お色気専門雑誌の記者は、うんうんと頷きながらノートにペンを走らせている。カセットテープレコーダーに繋がれたマイクでは録音も同時に行ってはいるが、記者ならではの考察や行間の含みなんかを書き取っているのだろうと思われる。この類の雑誌の読者に含みが伝わるかと言えばいささか疑問ではあるけれども。  雑賀は、自身の映画製作プロダクション事務所で雑誌の取材を受けていた。ノミネートされた作品から読者が選ぶ官能映画賞というものであるが、所謂日本の映画賞レースからは外れた存在だ。それでも雑賀は、この作品が取り上げられて、あわよくばいろんな映画館で上映されて、あいつの目に留まれば良いと思う。  小さな引き違い窓から、冬の冷たい空気が隙間風に形を変えて室内へ忍び込んで来た。冷たい空気、冷えた細い身体をふるりと震わせるお前。ぺらぺらの布団の中へ抱き込んだあの頃。  正吉ヨオ、お前はどこで何をしているよ。もしもどこかでこれを見たら笑っておくれ。お前と死ねなかった俺の無様な追想録だ。  雑賀は、カタカタと音を言わせる窓の外へ目を遣った。  ────────────  正吉と名乗る一風変わった男娼崩れと会ったのは、今から十年前、キネマかぶれの雑賀青年渾身の一作がけんもほろろに空を舞った日の夜だった。 「雑賀ちゃん、今夜はあたし買いなヨォ」 「ねぇねぇ、ショートじゃなくて一晩どお? サービスするからサァ」  黄色い声を上げる女達を片手で払い除けながらヤケ酒を求めて歩く。赤線地区のドブ臭い路地にももう慣れた。  お前のは相変わらずつまらないと本を投げて寄越した映画会社の上役に激昂しては、やはり自分は脳なしなのだと落ち込み、いやあれを分からない方が悪いのだと罵っては、あの作品に勝てるわけがあるまいと再び気落ちし、ブリキのバケツが邪魔だと蹴り飛ばせばカフェーの辛気臭い遣り手婆に怒られ、雑賀はとぼとぼと赤線の街を歩いていた。  あれを見せられては、もう俺の脚本なんて塵芥も同然だ。雑賀の心は激しく揺れていた。ああいうのが日本の映画界を背負って立つのだと、嫌と言うほど味わった帰りだった。  雑賀が助監督という名の雑用係でしがみついている映画製作会社で、鳴かず飛ばずの雑賀よりも年下の後輩が監督デビューを果たした。  見せられたフィルムは雑賀の頭なんかでは到底思いもつかないようなもので、主役のヴァンパイヤ夫人を美貌の若手男優が務めるという発想、そして儚くも美しい結末に、雑賀は鈍器で後頭部を殴られた思いがした。  あそこまでやらないと映画監督になれない。そして雑賀には、そこまでの才能はないという自覚はあった。  潮時なのだ、とは分かっていた。分かってはいるけれども諦めがつかない。酒を浴びるように飲んで、さっきの女を買って、有り金全部使い切って、それで諦めがつくのならそうしたい。  どうにも決めきれない心にぐらぐらと揺すぶられながら、何とはなしに一軒のストリップ劇場の前で雑賀は立ち止まった。  戦前から私娼窟だったこの一帯は、戦争が終わって楼主達が何をどう手を回したかは知らないが、政府が認める赤線地区と名を変えカフェーという業種で営業許可を取り、女給が客と恋に落ちたという名目で春をひさぐ、以前と変わらぬ愛欲の街を形成していた。  派手なタイルで装飾を施された店の柱にもたれ、女給は行き交う男達へ誘いをかける。全国にそんな街がいくつもあり、生きるためには食わねばならぬ、食ってくためには稼がにゃならぬと居所を転々とする者もいた。  そんな赤線地区も反対運動の声が高まり、存続の危機に立たされている。瀬戸際を生きる女達の迫力に圧倒されながら力なく歩いていた雑賀の目にふと入ってきたそのストリップ劇場は、何故か雑賀の心を惹きつけた。  カフェーよりも陳腐な作りの小屋である。入り口には切符を売るテケツと呼ばれる小窓があって、雑賀はそこで決して安くはない金を払った。  建付けの悪いドアを開ければ、仕切りカーテンの向こうに色褪せた別珍のスツールがいくつか置いてあり、小さな旅館の宴会場よりもまだ小さいステージがあるだけだった。花道すらないそのステージで開演を待つのは、ぽつりぽつりと暇そうな男が二、三人。間を開けて、雑賀もスツールに座った。  特出し全スト、まな板ショーという過激さが売りのストリップもあるとは聞いていたが、ここはそういった風でもなさそうだった。やはり有り金はドブに捨てて行けということか。雑賀は苦い笑いを浮かべた。 「間もなくショーが始まります。踊り子にはお手を触れませぬようお願いいたします」  アナウンスのあと客席の灯りは暗くなり、かわりにステージが照明に照らされた。とはいえ、全体的には薄暗く踊り子の顔もぼんやりと見えるばかりである。身に着けているものを一枚剥ぎ、もう一枚剥ぎ、ちらりとはだけた上半身に、まばらな拍手が客席から聞こえて、雑賀も仕方なしに手を叩いた。  そんな数人の踊り子に心が沸き立つこともなく、見るとはなしにステージを眺めていた雑賀の目に、見たことも聞いたこともない踊り子の姿が映った。客はと見れば皆常連のようで、特別驚いた様子もない。  ──ストリップの踊り子に、男がいるなんてあったか。  女と同様、薄く透けた襦袢を身に着けた踊り子の肢体は、まさしく男のそれだった。  ショーが終わり、雑賀は急いでテケツの窓を叩いた。 「すみません! すみません! あの、さきほどの踊り子の名前を教えてくれませんか」 「今日の出演者は貼り紙に書いてあるでしょ。あんまり大きな声出さないで。うちも用心しながらやってんだから」  雑賀は、ドアに貼ってあった今日の出演者の一覧を見た。克子、さゆり、エレーナ、正吉。──正吉。男のストリッパー。 「正吉……」  思わず声に出して正吉の名を呼んでしまっていた。それほどまでに雑賀の目には、どうにも忘れがたい正吉のストリップ姿が焼き付いていたのだ。 「はい?」  雑賀は振り返った。そこには着崩れた浴衣姿の男が立っていた。 「僕が正吉ですけれど、何か」  ショーが終われば、踊り子たちは楽屋でくつろいでいる筈だが、正吉にはどうもそういった場所がないようだった。  小屋の手前で煙草を吹かしていた正吉という男ストリッパーは、雑賀より若いようにも歳を食っているようにも思える。さきほどのショーの余韻も相まって、ステージ上よりも謎めいて見えた。 「き、君ね。さっきのショー良かったけれど、非常に勿体ないなあと思ったんですよ。俺なら、もっと君らしいステージを作れそうな気がするんだ」 「作れるって貴方、演出家か何かですか?」 「演出家ではないんだけれどね、映画を数本ね」 「すごい。監督のセンセイなんです?」  はじめは胡散臭そうに煙草を吹かしていた正吉だったが、雑賀の嘘混じりの経歴を頭から信じたようだった。煙草の吸いさしを地べたへ落として下駄の歯でこすり消すと、嬉しそうな顔をして雑賀の手を取った。 「センセイ、良かったら支配人に会ってって。小さい小屋だしいつ潰れるかも分からないけれど」  センセイ、こっちこっちと正吉に手を取られ、テケツを横目に見ながら踊り子専用の楽屋を通り抜ける。上半身裸の女達が一斉に雑賀の方を見た。 「姐さんたち、ちょっとお邪魔しますね。映画監督のセンセイなんだって」 「監督?」 「こんなチンケな小屋に?」 「本当かネェ」  そんな声を背中に聞きながら支配人のところへ連れて行かれ、雑賀はあれよあれよという間にストリップ劇場で仕事をすることになった。  女のストリップは脱ぐだけで拍手だ。だが男のストリップとなりゃ普通にやってちゃつまんネエ。雑賀は正吉のストリップを見た時、そう思った。  花電車芸人というのを聞いたことがあった。女のあそこから、米のとぎ汁を噴水のように吹かせてみせたり、バナナを切ったり、卵を産むなんて芸当も出来るという。熟練のストリッパーともなるとコインを何枚も入れたり出したり、煙草の煙も出せるらしい。  これを男ストリッパーがやったら、面白いんじゃネエか。雑賀は久しぶりにものを作る楽しさに打ち込んだ。  正吉に仕込んだ花電車芸は、なかなかの盛況ぶりであった。あそこを見せるわけではないからいいだろという雑賀の理屈に押し切られ、はじめは恥ずかしがっていた正吉も、やがて尻から卵を産むようになった。 「男花電車なんて珍しいショーがあるらしい」  と口コミが広がれば、小屋も次第に繁盛の気配を見せていった。雑賀は元来ものづくりの好きな男だから、正吉以外の踊り子たちの演出も手掛け、踊り子たちから雑賀センセイなんて呼ばれながら数年の月日が経った。  その頃には、雑賀と正吉はねんごろの仲になっていた。自分に男色のケがあるなんてはじめて知った雑賀だったが、正吉の身体とは相性が良く、正吉の尻の窄まりを雑賀はまるで熟れた果物のように感じるほどであった。  ショーが終わったその熱にうかされたまま雑賀の住まいへとなだれ込み、お互いに身も心も溶かされるようにして、血肉の一部になったかのように身体をひとつに重ねる日々が続いた。  聞けば正吉は、尾張の方で男娼をしていたらしい。同じカフェーで働いていた弟分が行方知れずになって、責任を感じて探し回ったけれどどうにも見つからなくて、失意のまま流れ流れてここへたどり着いたのだと言う。 「ストリップしながら小屋の裏でシモの処理もしたげてたから、なんとかその日食うくらいの金は稼げてたけれど、今は花電車芸だけで稼げるから楽しいの。センセイのおかげさ」    情事が終われば、精に塗れたまま二人は寝煙草に興じる。 「ね、センセイ。この幸せは病気なんでしょうかねぇ」 「ああ、病気だともさ。恋煩いの俺たちに付ける薬などありゃしネエ。恋する阿呆に溺れる阿呆。同じ阿呆なら死ぬまでさ」 「ああ嬉しい。センセイ、死にたくなったら僕が一緒に死んであげるからね」 「ははは、そりゃあいいや」  実のところ、雑賀は映画への未練が断ち切れないでいた。それを正吉はずっと分かっていたのだ、とあとになって雑賀は気づくことになる。  ストリップの演出をしながら、雑賀は助監督の仕事も辞めずに続けているのを正吉に話したことがあった。会社に言われて、踊り子の克子をヌードモデルにしたお色気映画を撮ったことも。  ずっと文学的な映画が撮りたかった。日本人の美学を鮮明に映し出すような繊細かつ大胆、人々をして素晴らしいと言わしめる映画が雑賀は撮りたかった。  叶わぬととうに分かっていた筈なのに、雑賀はまだそんなちっぽけな夢にしがみついていたのだ。風に吹かれてあっという間にどっかへ飛んでっちまった、ちっぽけな夢。捨て切れない己がみじめでならず、死んでしまえたらどんなに楽かと思う。  そんな雑賀の何もかもを呑んでくれた正吉は、どこまでも懐の深い情夫であった。 「正吉とならさ、良い心地で死ねそうな気がするよ」 「そう言ってくれるなら僕も本望さ、センセイ」 「どこで死のうか」 「街の外れの弁天池に入ったら、バチが当たるかしら」 「弁天様はありゃあ女の神様だから、男同士で入ったら、むしろ歓迎してくれるんじゃないかね」 「やだセンセイ。面白いこと言って」  薄い布団の中で正吉を抱いてそんな戯言を吐けば、正吉は楽しそうに笑って雑賀の首に抱きついてきた。 「ねえセンセイ。ドブくさい世の中だけどさ、僕はそう嫌いでもなかったよ。身体を売って見世物になって、そんな自分でもね。楽しいことはたくさんあったから」  雑賀の無精髭を愛しそうに撫ぜながら、正吉は菩薩のような笑顔を見せた。 「センセイ、大好き」 「ああ俺もさ」  雑賀は想像した。弁天池の水面にゆっくりと波紋を広げながら二人で入水して、消えて行く。しばらくの間水面は揺れ、やがてまた何事もなかったかのように凪いでいく。すべては終わる。  いかにも文学的な終わり方ではないか。雑賀は良い考えだと思った。  映画会社の上役が雑賀の家を訪れたのは、正吉がまだ布団の中でよく眠っている翌早朝のことだった。上役が言うには、克子をモデルにして撮ったお色気映画の売れ行きが思った以上に良く、この路線でお色気映画部門を立ち上げると言う。ついては正式な監督として雑賀を採用したい。  監督。助監督ではなくて監督。お色気映画だろうが何だろうが、会社から監督と呼ばれて悪い気はしない。  すぐに次回作を撮ってほしいという上役の言葉に、雑賀は思わず頷いていた。背中の向こうで、正吉が寝たふりをしていることなど、雑賀は気づきもしなかった。  ────────────  それで、その正吉さんという方は、もしかしてお一人で入水を? 雑賀「いいや、弁天池からは何も浮かんで来なかったし、ストリップ劇場に顔を出して、赤線も廃止になることだし尾張へ戻ると言い残して辞めて行ったそうですよ」  それじゃあ、監督は探しに行かれたわけですか? 雑賀「ははは、映画を見てもらえれば分かるけれどね。探しには行かなかったのですよ。映画だとそのあと劇的な再会がありまして、例のシーンになるわけですが」  なるほど。この映画にはモデルになった方がいらしたわけですね。監督の六年間の葛藤が忍ばれる、非常に胸の熱くなる作品となりました。監督、次に次回作についてですが──。    このインタビューのどこまでが掲載されるかは定かではない。いささか戸惑ったような表情でメモを取る雑誌記者の様子からしても、かなりはしょられ脚色されるのは間違いないだろう。  それでも雑賀は胸の内を明かしたことにほっとした気持ちでいた。だれかに聞いてもらいたかったのかもしれない。  雑賀を慮って消えた正吉を探すなど、手のひらを返すように態度を変えた自分が出来ることではなかった。自分に出来るのは、自分が選んだピンク映画監督という道を全うすることだけだ。  探しに行かなかったというのは嘘だ。正吉の本名が本当は正太郎と言って、尾張に戻り花電車芸で身を立てているところまでは雑賀の目で確かめた。  男花電車という珍しい芸は、いくらか食い扶持の足しにはなっているようで、それを見たところで雑賀は正太郎、いや正吉には会わずに帰って来たのだった。  あわせる顔などありはしないし、正吉がいなくなったことで踏ん切りがついたのもまた真実だ。けれどたしかに言えるのはあの時正吉に惚れていたということで、その思いを映画に込めたつもりではいる。  正吉ヨオ、こんな阿呆な俺の追想録ではあるが、お前へのラブレターだと思って受け取ってくれやしないかい。今でも俺は、お前に恋をしているんだ。  終
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