鳴きの夜

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鳴きの夜

 工場の社長に連れられて、初めて赤提灯と呼ばれる飲み屋の紐暖簾をくぐった雪のちらつく夜のことだった。僕はあの夜の三味線弾きを、そして彼の音色を、今も忘れられないでいる。  ──────────── 「おおい兄ちゃん、こっちで弾いてくれぇ」 「こっちが先だぞ」 「先にチップを払ったのはこっちだ」  店先の狭いテーブル席で男達が何やらやりあっている。小さな工場が密集するこの地区一帯では、どこに行ってもいざこざが絶えない。  上京して一年。ようやくこの光景に慣れたとはいえ、巻き込まれないようそっと身を縮こめるのにも毎度うんざりだ。  集団就職列車から上野の駅で降ろされ右も左も分からなかった頃なんて、そりゃあ喧嘩がおっかなかった。  ガタイのいい男達が飲んだくれちゃああちこちで拳を振り上げる。原因なんて決まって競馬で負けただの、オネエチャンに振られただのくだらないことばかりだ。  汗水垂らして稼いだ給料はカアチャン憧れの電化製品や子供の教育費に消え、鬱憤を晴らすといったらその日の酒と喧嘩くらいしかないのかもしれない。  僕には遠い故郷にいる年老いた父母くらいしか身内はおらず、金の遣いどころも分からず、ひたすら部品工場でオイルにまみれながら一日を終える暮らしだもんだからそんな鬱憤など当然経験したこともないのだが、まあ東京というのは人間から何かを搾り取って大きくなっていく街なんだな、というのは薄々理解できた。  そんな僕もようよう東京の暮らしに慣れた冬の頃、工場の社長から見合い話を持ち掛けられた。受ける理由も、だが逆に断る理由も見つからないまま「まあ飲みながら話そうや」と肩を組まれ、男達がくだ巻く居酒屋に押し込められるようにして足を踏み入れたのだった。 「なにおっ」 「やんのかこら」  やっぱり始まった。  アルコール臭のツンとくる安酒が辺り一面にぶち撒かれる。暇な野次馬がどうしたどうしたと人だかりを作る。近い席にいる者は慣れた様子で自分の酒やら小鉢やらを隅に寄せ始めた。 「こんなんじゃ積もる話も出来ねえなあ。場所変えるか」 「あ、はい社長」  酒に執着があるわけでなし、飲み屋でなくたって別に構わない。そそくさと社長に倣おうとした時。  ベンッ  ひとかきの三味線の音が店に響いた。その音に店内の客達は、胸倉を掴みあっていた当事者達さえも一斉に動きを止めて振り返る。  その音を奏でたのは僕より少し歳が上くらいに見える流しの三味線弾きの男だった。  店の奥からいつの間にか現れた彼は、まだ若いのに洋服ではなく随分と着倒したようにみえる紺色の着物を身に纏い、三味線を肩紐で抱えバチを手にしていた。  指先はまるで白魚のように細く長く、僕のオイルまみれのごつい手指とは大違いだ。  彼が演奏し始めたのは、青森民謡出身の演歌歌手がテレビの中で唄っている曲だった。店内の客達も耳に馴染みのある曲だと分かり、一瞬の沈黙のあとにやんやの喝采が沸いた。 「おおっ、兄ちゃんやっと来たか」 「その唄知っとるで、俺のお気に入りよ」 「俺だって知っとるわ」 「おめえら知ったかぶりしてねえでちゃんと聴け」  彼はその居酒屋では随分と顔が知られているようだった。驚いたことに、大の大人達が酒を飲む手も喧嘩すら止めて彼の三味線に聴き入り始めた。機嫌よく口ずさんでいる者もいる。僕も社長のことなどすっかり忘れ、椅子にすとんと腰を下した。  三味線の太く細くむせび泣くような音色が、心の奥をぎゅっと締め付ける。  僕には楽器のことなんてとんと分からないけれど、彼の奏でる音は何かを語り掛けてくるようで、それは僕だけでなく聴いている者皆がそう感じているみたいだった。  知っている曲が終わると、彼は店内の小上がりに正座をし、糸の調整をしながらベェン、ベェン、と試すような音を弾き出した。さっきの民謡とはがらりと空気が変わる。ベンベンベンベンと、音に色っぽいと言っていいのか分からないが、細指がしなやかに糸の上を踊る様は妙になまめかしかった。 「おっ、粋だねぇ四季の山姥かい」 「兄ちゃん、唄ってくれるのか」 「おい、あいつは唄えねえんだよ」 「ああそっか。口がきけねえんだもんな」  そんな会話が耳に入ってきた。大きな声だったから彼にも届いただろうが、とっくに慣れているのか、彼は凛とした姿勢で口元に微かな笑みを湛えたまま、何事もないように三味線を弾き終えた。  彼は立ち上がると巾着を袂から取り出して口を広げた。拍手の中を回りながらチップを受け取るのだ。  たいていの客は小銭だったが、中には札を小さく折りたたんで渡す者もいた。  社長と僕のところにも彼はやってきた。社長は興味がないのか気のない手振りで小銭を入れた。僕も残念ながら札を入れる余裕はない。ぎこちない手つきで小銭を入れると、ちらりと僕の方を見遣った彼は目元を緩ませ、ほんの少し会釈をした。長い後ろ髪がぱらりと数束首元に掛かる。その様子に思わず手を伸ばしてしまいそうな衝動を感じて、そんな自分に戸惑った。  僕は今、何を思ったのか。  物言わぬ彼は、大きな投げ銭を入れた客のリクエストに数曲応えた後、来た時と同じように静かに店から姿を消した。 「あいつのおかげでゆっくり飲めたのはいいが、肝心の話がちっともできなかったなぁ」 「すいません」 「いやあ、こんな店選んじまった俺が悪い。酒でも飲めゃお前さんもちったあ口が軽くなるかと思ったが」  お前さんにゃあ赤提灯は早かったか。ガハハ、と社長は笑いながら僕の背中を叩いた。叩かれた拍子に店の外へもつれるように出てみると、ちらついていた雪は少しずつかさを増していた。吐く息が白い。こんな事ならもう少し酒を飲んで温まれば良かったと苦味が胸をよぎる。  確かに初めてのことばかりだった。仕事のことも見合いのことも頭から消えて、残るのは三味線の音とそれを鳴らす彼の指先と、そして会釈の後に流して寄越した彼の眼差し。掴みどころのない煙のような気持ち。 「あの人はいつもこの店に来るんですか?」 「どうだろうなぁ、流しだからあの店この店で、ここで見掛けたのは何回目かだなぁ」 「そうですか」 「あんな顔して後ろのモンがいるらしいから、あまり根掘り葉掘り聞くなよ」 「後ろのモン……?」 「ここらの元締めのイロだって噂」 「イロ……え、だって男」 「関係ねえんだろ、今夜だって札投げた客とほら」  社長が肩越しに親指で差した方向を見てみると、その先には店に居た客の一人に寄り添うように歩く彼の後ろ姿があった。大きめのコートを肩に掛けている。その客の物だろうか。彼等の向かう先には、本格的に降り始めた夜半の雪に逢引き宿の妖しげな灯りが滲んでいた。 「まぁ流しなんてどうせすぐこの町から居なくなるだろうけどな」     ────────────  あれから数回、赤提灯の店やあたりの飲み屋に出掛けてみたが、案の定三味線弾きの男に出逢うことはなかった。社長の言う通り流しはひとつ町に居着くことはできないのかもしれない。それ以上彼の行き先や素性を探る勇気は出なかった。  彼の三味線の糸に絡まってしまった僕は、その指先と視線に心を奪われたまま今もつまらぬ毎日を送っているのだ。                            終
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