一 恒例行事

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一 恒例行事

 父はよく私達兄弟を登山へと連れ出してくれた。私の覚えている最も古い記憶では小学校に進学する直前のからっと晴れた寒い冬の日、父は私達を県内の標高数百mの低山に連れていってくれた。父との登山には母の握ってくれた塩掬とゆで卵を持っていき、山頂近くのなだらかな尾根道に設置された木製のベンチに座り三人で食べたことを覚えている。父は陽気な人で、いつも誰もいない登山道で鼻歌を歌いながら歩いていた。父の鼻歌に触発されて私や兄もその時テレビやラジオで流れていた流行歌を口ずさむことがあった。そんな時、ふいに曲り道の物影から年老いた白髪の登山客が現れたりすると、その一瞬で兄と私は歌うことをやめ体をこわばらせてそしらぬ顔をして俯き、登山客をやり過ごしていた。老登山客はすれ違った後に笑いをこらえていたかもしれない。ただそんな時でも父は会釈をして、異様な程に大きな声でお気をつけて言うと、その歌の続きを恥ずかしげもなく続けた。たぶん頭にこびりついたその歌は老登山客に驚いただけでは父の脳裏から離れることはなかったのだろう。鼻先から抜けていくのんきな鼻歌にのって父はどこに飛んで行ってしまったのか、それとも鼻歌に足元をすくわれて沢筋から滑落したのかもしれない。私が中学生の時、父はするっと私達の前から姿を消した。県外の山に登ってくると告げて父は帰ってこなかった。登山口に設置された登山計画書のポストに父の届けはなかった。三人で登る時は口酸っぱく登山計画書の重要性を説いていた父の行動としては不可思議な気がした。そのころになると大学進学のため兄は実家を離れ、東京で一人暮らしをしていた。兄がいなくなってから山から離れていた。それに父と私だけで山へ行くというようなことは一度もなく、考えもしなかった。父は私を山へと誘うことは一度もなかった。兄が実家を離れてからは、父は一人でよく登っていたようである。驚くくらい早く玄関ドアががちゃがちゃと音を立て、数時間後にリビングに行くと母が一人でソファに座ってぼんやりとしているようなことがあった。父がふっと消えてしまった後、皆慌てて警察に連絡したり、兄も久しぶりに実家に帰ってきたり、母は何をしてよいのかわからず途方にくれていたりしたが、ほどなくして警察は交番に帰り、兄は大学に戻り、母はさらに動きを失い、再び静かな沈黙がおとずれた。父は二度と戻ってくることはなかった。           * 地質学者の兄について山に登るのは一年に数回程ある私の恒例行事となっている。今日も秋晴れの澄んだひんやりとした空気の中、急峻な登山道を兄に後れを取らないよう息も絶え絶えに随行している。今年四五歳となった兄の足取りは以前と変わらず軽やかで楽しげだ。幼い頃から足しげく通っていた山域は兄の地質調査地域となり、今もなお、地質学者としてのメインフィールドとなっている。 四十歳の私としては年々兄との体力差を如実に実感している。私達の背後にはそれぞれの『idiosyncratic Nearctic Unity(NU)』が一m未満の距離を保ってついてくる。 かちゃかちゃと音を立てて私達の後方について来る『NU』の水平で広い背には兄と私でそれぞれ数㎏程度の数日分の水や食糧、調査道具が積載してある。それ以外にもザックを背負い、細い登山道をじりじりと登る。 「大きな荷物だな。相変わらず。山でなにをするつもりなのだか。」 「兄さんと違って僕は登山中に岩石を拾って段々荷物が重くっていくようなことはないから。積載可能重量の上限まで荷を積むことができるのだよ。兄さんと違って山で狂ったように必死でハンマーをふるうこともないから。」 「本と論文とパソコンと。そんなに多くの荷を持って登山する連中なんて見たこともない。一昔前の登山とは変わったものだな。なにをそんなにたくさん持っていくのか。」 「基本的には資料とパソコンだよ。まがりなりにも言語学だから紙の資料は手放せないよ。それに兄さんが岩を眺めている間は暇なんだ。僕岩石のことは良く知らないから。僕の荷物が多いのはいつものことじゃないか。」 私達はいつものように変わらないやり取りを交わす。言語学者としてパーマネントの職を得たのは四年前のことである。兄も同様に長い間、期限付きの職を渡り歩いていたようだが、私よりも以前に今の役職についている。兄は 登り始めた山を一度も下ることなく延々と登り続けて地質学者になり、私は何度も登っては下って、回り巡って現職の言語学者に辿りついた。大学に入ると兄は何となしに私を居酒屋へ連れて行き、そして山へと向かった。特に何か用事があったわけでもないが時間を持て余していた私は意味もなく兄の研究山域について行った。忘れてしまったが、最初は兄が調査を手伝うように依頼してきたかもしれないが、もう忘れてしまった。思い出してみるとあの当時兄もまだ年次契約の研究者であり収入が不安定な時期ではあったが、私を外へと連れ出してくれたわけである。今振り返ると長い時間をかけて兄弟二人で山に消えた父の供養をしていたような気もする。 景色が開けた湿原の朽ちた木道から薄暗いブナ林の樹林帯に入り、静かに歩き始めると、その鬱蒼とした樹林帯のどこからか父ののんきな鼻歌が聞こえてきたような気がすることがある。私はそんな気配につられて流行歌を口ずさみ、小さな声で兄が曲調を合わせてくる。兄に話したことはないが山に消えた父はまだ山にいることはは紛れもない事実であると私はそう思っている。            * 年間の大半を山に入り、地質調査する兄にとっては日常的な業務であるが私にとって登山は年に数回の非日常的作業なのである。日々トレーニングをしているような兄についていくのはただでさえ大変である。息苦しさのため私が話をすることができるのは休憩中ぐらいである。そのため会話はとぎれとぎれとなる。 調査のため、兄は藪や崖やら登山道から外れることが多かったようだ。藪を分け入ったり、崖際に立ってサンプルを採取したり、冬期に氷河の発達した時期に夏期にはたどり着けない岩壁に取りついていたことを以前帰り道に聞いたことがある。ただ、私と共に登る時は二人で登山道に沿って歩く。兄の流儀だったのだろう。 それは今回も同じであった。息が切れてそろそろ休憩を切り出そうかとしたとき、兄はやっと止まった。もう一時間以上、岩だらけのガレ場を這いつくばるように登っている。背後の二台のNUも静かにすっと、動きを止めた。二台の従順なしもべである。そこは見晴のよい切り立った岩肌であった。兄は事前にこの場所で止まることを決めていたのであろう。岩相変化が明確にわかるこの岩相境界で、露出のよい一つの露頭を選び出し、スケッチと写真撮影を始めた。やっと息が落ち着いて周囲を見渡すとそこはバッドレスの穂先近くだった。 私はその露頭から少し離れた比較的平らな場所でほっと一息つき、ずっしりと重いザックを下した。この年になると一動作毎に何か息が漏れる。息が漏れずに動くことはできない。数分して呼吸が落ち着くと、遠くに連なる山並みをぼんやりと眺める余裕が出てきた。 地を見てハンマーをふるう兄とのんびりと空を見上げる私のコントラストは、切り立った山岳風景を含めて十年以上続く無言の儀式にも似た行為であった。兄が作業に満足するのを待ちながら、私は持参したウイスキーで口を潤した。これもまた儀式の一環である。
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