二 ノジュール発見

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二 ノジュール発見

 無心でハンマーをふるう兄の背後で私はウイスキーを勢いよく飲み干した。午後になり切り立つ岩壁の眼下を見ると薄い雲が広がり始めていたが、あと数時間はもちそうである。小さなカップでもストレートで二杯空けると酔いが回ってくる。ほろ酔いの私はふらふらと立ち上がり、兄が夢中になっている露頭を覗き込んだ。夢中な兄は危険だ。それは昔から変わらない。岩石を叩いた反動でハンマーが私の方へ飛んでくることだけは避けなければいけない。兄の足元にはぼろぼろの崩れた岩石が死屍累々と転がっている。目の前の露頭は火山灰が堆積し、堆積時の熱で再固結した凝灰岩であり、この地域には広く分布している。何度も兄に同行していくうちにその岩石の名称を覚えてしまった。兄は今さっき露頭から叩き割った二十㎝程のキラキラと光る岩石の表面に目を凝らして覗き込んでいる。それには火山灰堆積時に作られた層状の模様と平べったく伸ばされた黒色岩片が見える。それが今回の兄の観察対象だという。 ぼんやりとした意識の中で兄の作業するのとは逆方向の露頭を眺めていると、岩壁の脇につるりとした光る矩形の塊が地表に顔をのぞかせていた。同じように凝灰岩のかけらが広がっているのかと思っていたら、思っていたよりも広範囲でそのつるりとした黒色の岩石が広がっている。 「兄さん、何か黒い塊状の塊があるよ。なんだろうね。」 兄はさっとやってきて、私の足元を覗き込んだ。 「黒いからといってもこれは黒曜石ではないな。火山帯だから局所的に黒曜石が出てこないことはないだろうけど。」  それは兄が観察していた露頭から数mのところだった。兄はおもむろに手持ちのハンマーで軽くその黒塊状の岩石を叩いたが乾いた音を立て、反動があるだけで割れなかった。二人で交代しながら何度か試みたがその岩石に傷すらつかなかった。どれだけ叩いてもなぜか割れない岩石はある。反動してきたハンマーの逆襲にあったことも数知れないだろう。 「サンプリングして検鏡観察しないと詳しいことはわからないが、この地域には凝灰岩しか出ないからこれは巨大なノジュールだろう。母岩の凝灰岩に取り込まれているのだろう。境界がわからないからもう少し周りの土砂を取り除いてみよう。ちょっと手伝ってくれ。」  二人で回りの岩を取り除いたり、土砂をどけたりして露出したノジュールと凝灰岩の境界を探したが、その境界は見つからなかった。 「二つの境界面を何とか掘り出したい。」  兄がぼそぼそと一人で話している。掘り進むうちに境界が見えてきた。その境界を観察する。 「ノジュールは直角に母岩と接触している。これは全くの直角で交わる二方向の断層が存在しているということだ。だが、ノジュールと母岩が接している面は到底、断層で接しているようには見えない。断層境界を構成する破砕帯がまったく存在しない。とても明確な境界だ。こんなにもはっきりに二つの岩石が接するのは見たことがない。これはもし断層ではなかったらとても奇妙な境界だ。たとえこれが断層だとしても珍しい。紙一枚入らんぞ。」 「一度ベースキャンプに戻るのはどうだろう。」 露頭の前で数分、頭を悩ませている兄に私は言った。私がそう切り出すと、兄もそうだなと小さくつぶやいた。ベースキャンプとして使っている山頂直下の山小屋へは一時間弱の道のりである。先ほどまでははるか遠くに見えていた雲がそろりそろりと下りてきていつの間にか鬱蒼としたガスが二人と二体の周りを取り巻いている。 「登山道が見えなくなる前にいったん帰るか。」 兄がそうつぶやいた。私達は登山道にはみ出た岩砕を軽く片付けてから山小屋への帰路を急いだ。                 *  私と小屋番の付き合いは長いは、兄と小屋番の付き合いはさらに長い。詳しく聞いたことはないが、二十年来の付き合いだと兄から聞いたことがある。兄は小屋番よりも少し年下だと思うが、二人の会話はいつも対等であるかのように見えた。兄がこの山域に足を踏み入れたのは大学生のことだ。この時からこの山小屋を使っていたらしい。兄はいつも決まって一番奥の二段ベッドの一階ベッドの前にザックを置いて、アウターやらフリースやらを備え付けのハンガーに通したり、その下に来ていた長袖シャツを小さな乾燥室の中に干したりしていた。兄は特に濡れているわけでもないのにその小さな乾燥室に手袋やらなんでも放り込んでいた。兄は何も話さずに黙々と作業をしている。それは小屋番も同じで静かに食堂の中で作業をしている。夕食の支度をしているのだろう。男二人のために男一人が食堂のキッチンに立っている姿は少し滑稽でもあった。小屋番の過去の話を私はあまり聞いたことはない。山を下りたらどこに暮らしているのか、厳冬期はどこにいるのか、家族は?この山小屋の収入だけで暮らしていけるのか?そんなことを聞いたことはない。ただ過去に小屋番が外のベンチに座って古びた写真を見ていたことがあった。幼い子供の姿がうつっていた。それは小屋番の娘だったのかもしれないが、そのことを聞くことなど私には到底できないのだ。私は外のベンチに座り、小屋番から購入した五百㎜缶のビールのプルを開けた。プシュッという気持ちの良い音がして私は一気にそれを胃に押し込んだ。空の青色が美しかった。                * 兄はやはり黒色のノジュールのことがひどく気になっているようだった。私はいつも通り、売店の三百五十ミリ缶のビールを二本購入し、静まりかえってしんとしている外のベンチに座った。平日の山小屋にはほとんど人影は見られず、静かで快適だった。売店の小屋番もこういう時は少数の客には目もくれずに事務作業に没頭している。山小屋でもなにも話さずに、定番のカレーを食べてそそくさと寝袋にもぐりこんでしまった。 次の日、想像していた通り、兄は早朝からごそごそとやっていた。黒色ノジュールのことが気になっていたのだろう。兄の行動パターンは私には良くわかる。山小屋の食堂で朝食の卵とレトルトのハンバーグを食べ、味噌汁をすすっていると兄が小屋裏の土間から常備してある三十㎏のハンマーを持ってきた。 「食べたらすぐに出発するからお前も早く食べてくれ。」 想像していた通りだった。現場に着いたのは起床してから一時間もたっていなかった。露頭に着くなり、兄はその一m弱の長さを超えるハンマーを振り回し始めた。ガンガンと数回にわたり長い柄を持って振り回し叩いていたが、悲しくも割れる気配はない。時折兄に促され、交代を繰り返し、私達は二人だけの打席に交互に立った。ただ岩塊は決して割れなかった。一心不乱にふるっていた兄もそしてそれを手伝っていた私も息が切れ、疲れ果て、倒木に座った。 「あれはなんだろうね。文字が見える。」 私は何か岩塊に『文字』が浮かび上がっているのを見つけた。私が手早く岩砕を取り除くと浮かび上がってきたのは薄く刻まれた“文字”であった。文字としか言いようがなかった。何が書いてあるのか私にはわからなかったが、それは意味のあることだと直観した。 「何かあったか。」  朽ちて今にも崩れそうな倒木に座り、俯いていた兄がなにか言っていたが今度は私が夢中になっていた。文字に意味があるのかどうか、何を意味しているのかということは言語学者にとって最大の関心事である、言語学者のメインフィールドである。こんな山奥で私がここに存在する意義が発揮される。『私にはその記号のような模様が意味のある文字に見えたのである。』                * 「なんかあったか。」 兄がもう一度声を上げた。やっと脳内に言葉が届いた。 「岩塊に文字が見える。」 兄はすぐに私の手元を覗き込んできた。 「ほら兄さん。岩塊に文字のような模様が浮かび上がっている。」 もう三度目である。 「そうだな。もっと広範囲で岩石を露出させよう。」  兄はすごい勢いで岩塊の周りの植相を欠きとり、沢水をバケツに入れて大量に持ってくると、沢水を露頭にかけて金たわしで擦った。兄の一連の流れるような行動に驚いている間に汚れはみるみる落ち、より明確に岩塊に白く縁どられた文字が鮮明になった。兄にもやっとそれがわかったようである。腑に落ちた顔をしている。それは象形文字のような複雑な形をしていた。私の考えは確信に変わった。 「これは本物だな。」 兄は呆然と岩塊を眺めている。私には相槌を打つことしかできなかった。兄が本物だと言った意味がわかったような気がした。何もわからないが目の前で見ているものは本物であるということを直観した。強烈なその直観をたよりに、私達は毎日その現場へと通い詰めた。 私達の熱意は共鳴し、倍増していった。ただ事ではない何かを私達は感じとり、それは熱意という形でさらなる調査へと私達を駆り立てた。こういう時は楽しい。すべてを忘れて何かに取り組むと、時は彼方に飛び去り、弧高へと消えていく。ただそこに煌々と光輝く無限にも見える熱源が広がっているだけである。長期の調査予定ではなく、いつもの通り二泊、長くても三泊の予定だと兄から事前に聞いていたが、そんなはずはなかった。 「ちょっと長くかかりそうだけどお前は下山するか。もうちょっと手伝ってくれるのであれば、それはありがたいが、お前も仕事があるだろう。」 「何言ってんのさ。もちろん手伝うよ。あの岩石に刻まれた文字はとても気になるから。大学は有給休暇を使うようにしよう。山小屋に戻ったら連絡を入れておくから大丈夫だ。」 そう伝えると、兄は満足そうにうなずいた。                      * いつも使っている山小屋なのでハンマーだけでなく保存食を置かせてもらっており、食糧に不安はなかった。インスタントラーメンが続くのは辛いだろうが、大きな問題ではないだろうと私は思った。NUの予備電源が発電機になるので短期間で山小屋を離れても特段問題はない。山小屋の食糧棚には兄のための棚が用意されていたが、それは今回初めて知ったことだった。兄は小屋番とも仲良くやっているようだ。 私達はいくつかの山道具をNUに載せて現場まで行き、周囲の草を刈り、岩壁の汚れを取り除いた。一応兄は走行傾斜を測定していたが、垂直水平であることは素人の私の目にも明らかだった。 「人工物なのだろうか?ただ境界は緻密だ。」 次の日、境界部の上部を確認するため、脚立をNUに積み、現場へ向かった。兄は昨日、境界部の最下部を観察していたため、今日は最上部を観察する予定だった。私は岩石に興味がないわけではなかったが、さすがにその観察は諦めた。特に違いが判らないのである。ただ、兄の情熱は継続している。私はいつもの通りウイスキーを少し口に含み、ぼんやりとした境界最下部の文字を眺めていると、ふとあることに気がついた。 「岩に刻まれた文字が昨日のものとは違う。」 思わず大きな声が出てしまった。 「なんだって。」 脚立に乗って上の方で境界部の写真を撮影していた兄も同じように大きな声をあげた。 「岩壁の文字が昨日と違うんだ。」  兄はすぐに脚立から飛び降りてきて境界層下部を観察し始めた。 「本当だ。写真をとっておこう。」 「岩壁全体の文字がすべて見えるように分割して写真をとっておこう。僕がやるよ。」  私は持参したデジカメで辛うじて読み取れるくらいの倍率で、岩壁の文字の写真を撮影し、山小屋に再び戻った。  山小屋のベンチで落ち着いて岩壁の全体写真を二人で詳細に眺めていると、最下部と最上部の文字が変わっただけではなく、岩壁の中央部には昨日の文字列が残っていることに気が付いた。 「中央部に昨日から二行、新しい文字列が追加されている。そういう動きをしている。」 「そうだね。毎日新しい文字列が二行ずつ、岩壁の中央部に追加されて最上部と最下部の文字は消滅しているのは明らかだね。」 つまり、追加された文字は岩壁中央部から一行は下へ、一行は上へと移動していた。 「これはおもしろい。」 この奇妙な事実は言語学者としての私の好奇心をくすぐった。 「この三m四方の岩壁は巨大なパソコンの画面ってわけだな。この画面に現れている文字は日々、上下に『スクロール』しているというわけだ。」  私達は顔を見合わせ、妙な間がこの岩壁前の空間を支配した。巨大な情報源にアクセスしたかのような、宇宙の深淵に触れたかのような感覚だった。私達は撮影した最新の画像を持って山小屋へと戻った。                *  兄は新たに追加されていく文字を読み取って記録し、私にその情報を共有した。山小屋で撮影した写真の編集作業をしていると、横から小屋番が色々と質問してくることがあったが、私達は事実を伝えるだけだった。それ以上に私達にはなにも理解できていることはなかった。そこには文字を映す壁があり、日々増えては消えていくというただそれだけの事象が繰り返されている。私達はこの岩壁に『書壁』と名付けた。三m四方に及ぶ書壁には一㎝弱の文字がびっしりと、整然と敷き詰められている。兄は当然のこと、私には何が書いてあるのかは理解を超えていた。ただし意味が分からない中で、勝手に想像することは自由であった。それは数十人、数百人の名が刻まれた墓石に見えた。日々増えては消えていく数多くの死者の名はなんというのか。死者達はどこに住んでいたのか。墓石であることも、何という文字が刻まれているのか、なぜ日々変化するのか。なにもわからない状態で、私は夢想するしかなかった。私達にはまだなにもわからなかったのだから。    
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