三 書壁解析

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三 書壁解析

 弟は私と違って鋭い観察眼を持っている。そのことははっきりとわかる。書壁の発見といい、それに刻まれた文字が『スクロールするという規則性すら弟が見つけたものなのだ。昔から頭脳明晰なのは弟だと私は思っていた。センスがあるのは弟なのだ。弟が言語学者として定職を得ることができたのは幸運であった。私と同じく、今にも崩れそうな細く長い道のりをひやひやしながら歩いている。  書壁を発見してから、既に一か月が経過しようとしていた。山小屋ではまるで自分たちの家であるかのように振る舞っていたが、小屋番の視線が目に見えて冷たくなり、とても辛い。山小屋の一室を占有させてもらっているのもそろそろ限界かもしれない。夏山シーズンが近づき、登山客も増え始めてきた。分析作業は小屋番を気を使い、屋外のベンチと机で行っていたが、それもそろそろ限界かもしれない。 「そろそろ下山するか。」 そう切り出すと、弟もうなずいた。すでに、書壁の地質学的な調査はやりきっていた。書壁は基盤の凝灰岩と固着しており、それを分離することは現時点では不可能だった。小型のダイヤモンドカッターが山小屋の私の倉庫に転がっていたのでそれで切断しようとしたが、傷すらつけることはできなかった。そのことは遠隔で日々追加される文字をその場で観察することを私達に義務づけた。 「一度下山することには賛成だが、その間に追加される書壁情報の記録はどのようにしようか。」 それは私もどうしたものかと思っていた。屋外ベンチでの議論が白熱していると、小屋番がそっと近づいてきてそのカメラを預けてくれれば、その岩を撮影しておきますよと提案してくれた。そこで私達はいったんこの山を後にすることにした。  下山後、私達は新たな作戦を計画した。それは書壁の保管と日々追加される文字情報の管理である。それは私達に課せられた義務であるというのは変わらない結論であった。蓄積されていく書壁情報を保管するための場所づくりこそが私達に課せられた第一使命であると。私達はまず、書壁の見つかった露頭に小さな建屋を作り、さらに書壁に現れる文字を一m四方に分割拡大し、自動で撮影するシステムを研究室で事前に自作した。もちろん私財を投じたのである。それほど私達はのめり込んでいた。ほどなくして材料となるプレハブ小屋を調達することができた。それをヘリコプターで空輸することにした。現場は国有地であるため、林野庁との交渉、山小屋番への協力要請などをしていると一か月という期間はすぐに過ぎていった。一ヶ月後に完成した建屋は書壁を取り囲むように建築した。それは壁の風化を防ぐという目的と壁情報をスムーズに保管するための設備となっていた。一か月後、私達は再び入山すると建屋の建築に取りかかった。 現場に着くと小屋番が待っていた。久しぶりの再会に私は少し心躍った。それは書壁との再会でもある。小屋番から受け取ったデジカメの画像容量はほぼ一杯になっていた。すぐにデータを持ってきたPCに移動し、弟ともそのデータを共有した。書壁前には続々と資材が運搬され、一週間もすると書壁を取り囲む建屋が建ちあがっていた。プレファブリケーションの恩恵である。 「研究室で考えていたものが完成しそうだな。」  建屋は全三階建ての鉄骨造であり、北側の壁は書壁を覆い、北側は一階から三階までが吹き抜けとなっていて、書壁の表側の壁をどの階からも観察できるようになっていた。一階はエントランスと、サンプル置き場兼作業場となっており、二階は共同研究室、三階には各個人部屋を設置した。これにより長期の調査でも最低限のプライバシーを持つことができると考えた。一か月前に書壁を見つけてからここに研究室を作ろうと考えていた。弟も同様に書壁には価値があり、それは言語学的な観点でもそうだと考えていた。 「ついに完成したな。」「そうだね。」  物資の運搬に役立つだろうと思い、NUを連れて来た。NUの設置位置は一階の書壁脇にした。 「まず一か月分の画像データを確認するか。」  私は小屋番から受け取ったSDカードをPCに接続した。一か月分の画像データは膨大であり、ハードディスクはすぐに容量一杯となった。建屋の二階は共有の研究スペースにそれぞれ持ち込んだパソコンとデスクとキャビネットを設置すると、なんとなく研究室らしくなってきたから不思議である。吹き抜けには九つのカメラが設置してあり、書壁全体を九つに区分して撮影するように設計した。一区画が一m四方であり、九つのカメラが書壁全体を二四時間撮影していた。 「ちゃんと撮影されているな。画像表示が変わったら自動で撮影されるような仕組みを構成しておいてよかった。固定カメラの解像度も自体も十分のようだ。」 「そうだね。一㎜弱の書壁文字がこれだけはっきり見えていれば十分だね。ところで研究室の居室はどうしようか。二階の共有スペースをひとまず使うだろうね。」 「そうだな。それとネットワークサーバーの設置場所は一階の北側の端にしよう。」  想定していた通り、画像を保管しているサーバーはすぐに最大値となり、サーバーの増設が必要となった。また、三階の二部屋が個人部屋となった。 建屋の立ち上げ後、一週間程で私達は一度下山するつもりだったが、自分達で作ったこの研究室は快適で下山することをやめた。食糧も燃料もまだ十分に残っていた。二か月後一度下山したが、次第に下界の大学で過ごす時間と、この山上建屋で過ごす時間は半々くらいになった。                * 一年間程経過し、想定していたよりも山上建屋は快適だった。このような高山地帯で生活するということはそこにいない人間から考えれば、不便この上ないだろうと想像していたが、実はそうでもなかった。山小屋からも離れているため、登山客が迷い込むこともなく、いつでも静寂と景観に囲まれている。そんななかで思索にふけることは何よりも贅沢である。弟もそれは強く感じているようで、資料や生活用品をNUに乗せて一人で登ってくることもあり、山上建屋は上界のセカンドハウスとなった。私も調査地域のほぼ中央に位置するこの建屋をとても気に入った。小屋番には山頂の山小屋から一週間に二日程来てもらい、食事を作って貰ったり、荷卸等の作業を手伝ってもらった。 「兄さん。そろそろ、論文が公表されるのかい。」 「ああ、もうすぐ発行される。やっとだ。査読が案外厳しくて、二回リバイズをくらったけれど、何とかなった。」 弟は二階の共同研究室でPC画面を眺めながら薄いコーヒーを飲んでいた。がらんとした空間にコーヒーの香ばしい香りが充満している。下を覘けば書壁が白く光っている。 「書壁の発見は地質学的にはまだあまり把握されておらず、正しく理解されていないように思える。あれは第三紀の人工物であるという考え方がまだ学会内でも色濃くある。先日の発表でもあまり反響はなかった。第三紀の物質であることは確かで、放射性同位体元素を用いた年代測定でも書壁の岩石は現生の岩石であるということは紛れもない事実だ。それは間違いないが、その岩石はジュラ紀の凝灰岩と断層ではなく直に接している。書壁と凝灰岩の境界はそこにあり、この建屋の北側の壁でもある。」 「そうらしいね。僕は詳しいことはわからないけど。」 弟は猫舌だった。昔から熱い熱いと言って母が作ったスープを時間をかけてゆっくりと飲んでいた。私は口の中をやけどしてでも、早くスープを飲みたい性分だった。 「現生の岩石がジュラ紀の岩石と接しているということはジュラ紀と現生が数㎜の厚みの膜を挟んで行き来していることにも似ている。ただ単に、ジュラ紀の岩石の傍らに現生の岩石が落ちているだけなのではないかと査読者達から疑念をかけられたが、実際に彼らをここに連れてきて、この建屋の中にある書壁を見せると彼らも唖然として、これを事実と認めたよ。まあそういうことだ。」 弟はへーと言って、また冷めたコーヒーをすすった。  私はこの山域を長年調査してきたが、新たに今回の異質な岩石の記述を追加することができたわけである。この地域には前述した凝灰岩もあれば、玄武岩の火山噴出物もある。そんな山域に書壁も存在していたのである。書壁を切断することはできなかったので、蛍光X線分析やラマン分光分析などの非破壊検査で書壁の分析をしたが、どこまでいっても書璧と周囲の岩石との関係性は希薄だった。どこにも属さない書壁の感じが私には心地よかった。                 *  私の論文の公表から半年後に弟が一つ大きな発見をした。それは言語学会にとっても大きな発見であった。書壁本体の物質科学的な分析をしていた私とは異なり、弟はそこに記された文字の規則性を研究していた。あの文字群が意図することは何か。それに尽きる。 弟は日々追加されていく書壁情報の収集と解析をおこなっていた。その文字の体系に気が付いた弟は一気呵成に成果を挙げ、その規則を元に数万字の文字の羅列が急に意味を持った。そこには様々なセンテンスがちりばめられていたが弟にはそれが何を意味しているのかわからなかったわけである。そんな時、弟の解析しているデータベースの文字群が表示されているPC画面上の一文が目に留まった。 「これはなんて書いてある?」 「ああ、兄さん。センテンスの意味が理解できたことは伝えた通りなんだ。大量の書壁データベースから一文毎の意味を解読することができたんだよ。PC画面に表示されているのは今論文にまとめているところだけど。こんなことが書いてある。」 弟はPC画面を見せてきた。 『パンゲア大陸が裂けて、ローラシア大陸とゴンドワナ大陸が生まれた。』 「なんだ。これはジュラ紀における大陸の配置について記載されたものだな。特に目新しいことでもない。」 「そうなのかい。ジュラ紀の大陸配置について記載されていたのか。それにそれは地質学的には常識というわけか!」 弟は驚いた顔を見せた。 「他にどんなことが記されていたのか。翻訳後のデータベースを見せてくれないか。」  そこには、先ほどのゴンドワナ大陸とローラシア大陸の成り立ちだけでなく、カンブリア時代の中朝地塊、揚子地塊の成り立ち、ペルム紀に存在した今はもう存在しないテチス海の話など、地球史にて既に発生した過去の地質学的特徴が記載されていたがそれは私にとっては自明のことであった。 「これが下部境界層から書壁中央部までに記述されていた直近一年分のセンテンス群だよ。」 弟のPC画面をのぞきこむと、そこには数万字のセンテンスがテキストとして整理されており、かなりの情報量であることがわかる。 「それでこちらのデータベースが上部境界層から書壁中央部までに記述されていたセンテンス群だよ。」  データがきれいにまとまっている。弟の得意な整理整頓術である。私はそのデータベースを見ていて奇妙なことに気が付いた。そこには『ユーラシア大陸の東縁で大規模な海底噴火が起きた』ということが記載されていた。この国は隣国と海洋に挟まれている。その状況はこの国が常に隣国からの脅威にさらされることを示している。大陸のこと以外にも私には到底理解できない事象が記載されていた。 「下部境界層近傍に記載されている事象はすでに過去に発生した地質学的イベントであり、それは周知の事実である。ただ、上部境界層近傍に記載されているセンテンスは私の知っている過去の地質イベントではない。これは本当に興味深いことだが、おそらく上部境界層側には未来の出来事が表示されているのではないだろうか。これは非常に奇妙なデータだ。過去の現象が本当に起きるのかを知ることはできないし、未来を予測することは決してできないが、書壁に記載されたことが未来の事象を示しているのか否かということを検証することはできる。それが起きるまで待っていればよいのだから。」 私は妙に息巻いた。 「書壁は地球史の未来を予測できるかもしれない。」                  * 私達は十五年弱の間で十数本の論文を記し、公表した。弟は翻訳した書壁情報を定期的に冊子にまとめ公表した。そして私は書壁情報を元に、それが過去の地質情報、さらには未来の地質情報をも指示していることを主張した。これは書壁の地質学的特徴の公表時よりも大きな反響を呼んだ。それは、九十%強の批判と数%の激励であった。ただ、激励といっても決して賛同されるものではないのだった。  私が激励と感じ取っていた他者の意見は私の主観であり、ただ単に私達の面白がってイカサマ研究者のレッテルを貼って馬鹿にしていただけなのかもしれないが、十数本の論文を公表したことは事実である。山奥のこの山上建屋で暮らしていた私達には下界の雑音は届かなかった。ただ有用な情報すら届かなかったのかもしれない。明確にその不名誉なレッテルを張られていることに気が付いた出来事がある。私達はこの山上建屋で暮らし、ほとんど下山することはなかったが、学会での発表のため稀に下山することがあった。その時に受けた仕打ちを私は忘れることはできない。書壁の発見を公表したいと息巻いていたあの時、私は弟を連れ立って地質の学会へと出席した。書壁の地質学的事実とその成因についての発表に対し、それはいかにも冷めた反応であった。会場には十数人が私の発表を聞きに来ていたが、それも一つ前の発表を聞いた後にそのままその場に残っているだけのようなものだった。私は書壁の非破壊での組織観察や、年代測定結果を交えて発表した。発表が終わると議長が質問のある人はいないかと会議室内を一瞥した。数秒間誰もが反応しなかった後に、議長が誰かを指さして、発言を求めた。私はふとその指先の方を覗き見ると、スーツ姿の男性がマイクを握っていた。そしてこう言った。この茶番は何なんですか?と。一瞬、会議室内が凍り付いたような感覚になったが、次第に後方から押し殺したような小さな笑い声が聞こえてきて、それが渦のように広がっていくと、その時やっと私は自分の主張の学会内での立ち位置を知った。それはまさにいかさま研究者のレッテルだったのだろう。
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