五 閑話休題

1/1
前へ
/8ページ
次へ

五 閑話休題

父に連れられて登った山で印象的な場所を覚えている。私が大学に入学する直前だった。受験も終わり束の間の解放感を満喫していた私に、父は冬山に行くかと声をかけてきた。冬山登山は中学生の弟には危険すぎると言い、父は私だけを連れて行くと言い張った。弟は残念そうにしていたが母が心配そうな顔をしていたので弟は冬山の山行をあきらめた。夜が明ける前に私達は出発した。登山口までは三時間弱の道のりだった。私は助手席に座り、登山口に着くまで寝ていた。激しい眠気に耐えられず話すことも特になかった。登山口について車を降りると凍てつく寒さに震えた。雪はすでに十数㎝は積もっていて、またちらほらと雪が舞い散っている、父は黙々とウィンドブレーカーやスパッツやらウールの上着やらを着込んで最後に分厚い手袋を付けようとしていた。私も遅れずに準備した。登山口の駐車場にて各々で登山支度をしている時間を私は好きだった。登山で準備するものは決まっている。車を降りて、フリースを着る。ウィンドブレーカーを着る。靴ひもを締める。ザックに詰めた食糧を確認する。地形図を取り出して、見やすいように、胸ポケットに入れる。帽子を目深にかぶって、いい気分になる。そのような一連の流れをいつも反芻する。この一連の流れは儀式めいていた。登山は儀式に似ているのだ。やることは変わらないがやっているうちに毎回没入感が増していく。登山開始の儀式を終えると私達は登山口に取りついた。二月の冬の赤城である。もちろん私達の他に登山客はいない。登り始めると、足元には数十㎝大の岩石がごろごろと転がっている。安山岩だろうか。岩にはうっすらと雪が積もっていて足を取られそうになる。葉を落とした木々に真っ白な雪が付着している。一時間少し歩いただろうか、山頂が近づいてきた。森林限界を超えないこの山には山頂にも植生が生えている。足元ばかり見て歩いてきた道のりで、いつも顔を上げるのは勾配が緩やかになったときと、休憩する時だけである。緩やかな勾配に顔をあげると、そこには細かい木の枝に雪をしたためた無数の樹氷が立っていた。手袋の手がかじかんで、足先や指先の冷えが体全体に広がり、腹も冷えてきた。ただ目前には真っ白な桜が咲いている。父は立ち止まると、「これは美しいだろう。早々に桜の祝いだ、山登りに連れて行っていたおかげだな。大学でもがんばれよ」と行った。こんなに寒いと鼻歌も出ないのだなと私は思った。父がいなくなったのは、その二年後だった。赤城は地味ながらも私の好きな山の一つである。  大学入学と同時に私は地元を離れた。ただ一人でも野山を歩き続けた。それが楽しかった。山歩きが性に合っていたのだろう。登山道に飽き足らず道なき道、沢や崖に取りついては岩石を集め観察した。野山歩きの傍ら、既存の地質図上にそこでの発見を記載し、地質図の高分解能化に努めた。大学卒業後は国立地質調査所に入所し、日々地質調査を続け、書壁の発見へと導かれたもしれない。                 *  五才年の離れた弟とはいつのまにかもう私にとって五五年の付き合いとなっている。弟は幼少期からカレンダーの裏紙や広告の裏紙に自分で調べて覚えた文字を書いては満足そうにながめているような子供だった。小学生になって文字を正式に習い始めるとそれはさらにエスカレートした。なにが楽しいのは私にはさっぱりわからなかったが、弟は学んだ文字をノートにびっしりと細かく書いてはその文字を繰り返し音読していた。小学生になると母は弟に子供向けではない一般の国語辞典を買い与えた。父もそんな弟の行動を面白がっていた。父も好きな花の名前などを弟に教えては自分の好きな植物図鑑を見せたりしていた。弟は学校でも仲の良い友人等はいないようだった。小学校で重複した期間を過ごすことは二年弱であったが、そのころは私も弟のことを少し気にかけて、教室内でうまくやっているのかどうか弟のクラスをそしらぬ顔をして見に行ったりすることもあった。母から買い与えられた国語辞典はみるみる手垢にまみれ、弟の文字拾いノートはすでに三冊目になっていた。その文字拾いノートがおそらく弟の言語学者としての一歩だったのだろう。拾った言葉の意味を書き写すだけでなく、拾い集めた言葉の関連性を掘り下げていた。弟には幼い頃、短期間であるが私や父母が理解できないような意味のわからぬ言葉を発していた時期があった。それは自意識が発達する前に言語になる前の発話を身を以て体感していたのかもしれない。後に弟はランダムな言語を一定の周期性を持って独自の言葉を作ることになったので、今考えるとそれは幼児帰りのような行動だったのかもしれない。その原点が今になって兄の私が振り返るとこの時期の言葉遊びだったのかもしれないと私は感じている。  小学生の時に与えられた小さな学習用の辞書は、数㎏もありそうな分厚い国語辞典に変わり、そして英和辞典、ラテン語辞典などに変化し、それらは弟の部屋の本棚に増え続けていった。無数の言葉の蟲に取りつかれたかのような弟だったが私や父が登山に誘うと拒むこともなく、すんなりと同行していたのである。 父が消えた後は大変だった。慌てて取り乱す母を横に見ながら私と弟も動揺していたのだろう。ただ私は母のように日々泣くようなことはなく、一か月も過ぎると父のいない生活に慣れた。弟も私と同様に表立って取り乱すことはなく私の目には冷静なように見えたが、内心実は母と同じ気持ちだったのだと、今になるとわかる。弟の変化は徐々に訪れたので、その当時は父の失踪が直接の原因なのかどうかということは気が付かなかった。  父の失踪から約二年後に弟は完全に言葉を失った。完全に失ったという表現が最も適当であると私は思う。元々、陽気な父に比べると弟は無口であった。ただ、朝起きて何も言わずに、帰宅後も自室にこもり何も話さずに、おそらく高校でも何も話さなかったのだろう。一日中何も話さず、二日、三日と何も話さず、二週間が経過した時、母と私は弟を心療内科へと連れて行った。弟には自ら言葉を放棄し、思いを内にため込んでいるように私には見えた。弟は一七才になっていた。その頃には母はすでに精神的に弱ってしまっていたがまだ弟のことを気に掛ける余裕があったのだろう。弟を連れて心療内科へと連れて行った。弟の口は固く閉ざされており、発するはずだった言葉が行き場を失っているようだった。医者の見立ては父を失ったことによる過度のストレスであり、一過性のものだろうとのことだった。わずかばかりの抗鬱剤を処方され、弟はそれを日々飲んでいた。ただ、弟の様子は変わらず、病症が改善することはなかった。母は弟をリハビリ施設へと連れて行っていたようである。医者の見立ては失語症とのことだった。そんなことは数年前からわかっている。外的な症状に命名しただけである。弟の深層心理に入り込むような様々な検査をしたようである。その時には私はすでに地元を離れていたので、そのころの弟の様子を詳しくは知らない。大学進学後に数回は実家に帰って弟の様子を見たり、何気なく話かけたりしたが、弟の様子に変化はなく、弟の自室の辞書の数はさらに膨れ上がっていただけだった。ただ変化があったのは母だった。母は畳一畳ほどの、何か良くわからないミニチュア神殿のようなものを祭り、ありがたがっていた。ミニチュア神殿の両側には小さなペルシャ猫の置物が狛犬のように配置されていた。その気味の悪いミニチュア神殿を母はありがたそうに眺めては頭を垂れていた。これは良くないと私は思ったが、その時の母を止めることはできなかった。私は大学で教授のアシスタントなどで得たわずかばかりのアルバイト代を稼いでいたが、その内の数万円を弟の部屋の前に置き、作りおきした料理を冷蔵庫にしまうと、その時は帰路についた。 またある時は、久しぶりに実家に帰ると母は家にいなかった。がらんとしたリビングのソファに一人で座っていると二階から誰かが下りてきた。一年ぶりに会う弟だった。たぶん反応ないだろうと思いながら、飯でも食うかというと、弟は、明日山へつれていってよと笑った。長らく聴いたことのなかった弟の声は最初誰の声だかわからず、天から聞こえたような錯覚があったが、紛れもなく六年ぶりに聴いた弟の声であった。そうだな、山に登るか、私はそう答えた。                  * その後、弟は大学検定の資格を取り、遅ればせながら二四歳で大学へ進学した。それはもちろん言語学を学ぶためである。六年にも及ぶ長い準備期間は弟にとって必要不可欠なものだったのだろう。部屋に籠っていた頃のことは、五五才の今になっても話し伝えられることはない。弟が数か月間言葉を失い、再び取り戻した直接の理由はわからない。ただ、父の失踪は母や弟に大きな影響を与えた。それはもちろん私にも影響を与えたのである。 大学進学後、弟はそれまでに内にため込んでいた言葉をなすが儘に吐き出していたように見えた。それは弟の内で発酵していた言葉のようで、論文という形で豊潤な果実を実らせた。その後、弟は順調な成果を挙げ、言語学界にて、今の地位を築いた。それは私にとってとても喜ばしいことだった。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加