六 カネコ氏の子猫

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六 カネコ氏の子猫

「この書類をファイリングしておいてください。」  小屋番は年を取り、六十才になっていた。M.C.labは設立時から変わらず三部門に分かれていたが、情報科学分野の生み出す事業損益はその九割を超えていた。残りの一割は山上建屋にやってくる登山客の宿代等の収益であった。小屋番は山上建屋で登山客の対応をすることと合わせて、M.C.labでの様々な雑務を担当していた。一方、私や兄は自由に研究に取り組めていた。カネコ氏が書壁データベースを使用して不動産デベロッパに提示した最初のコンサルタント報告書は大きな成果を挙げた。この国の特に沿岸域での火山活動の活発化を予測して、沿岸域の地価の暴落を予測した書壁予測には多くの注目が集まり、その報告書を提出したM.C.labはデベロッパからの支持を得た。さらに、カネコ氏は依頼主からの了承の元、その成果を広告として掲載した。私達兄弟とカネコ氏の書いた報告書以外にも、『書壁情報による火成活動活発化予測とその近未来予測の恩恵』という名の論文を提出した。これはM.C.lab所属の研究者として、初めての共著論文であった。書壁予測事業が世間に広がりつつあった。コンサルタント業の成功時も、初の共著論文の公表時もカネコ氏はその成功の喜びを表すことはなく、淡々とデータ解析を続けていた。その後、この国の沿岸部の海洋プレートの沈み込み角度が緩慢になるということ、海洋プレートの沈みこみ方向が現状に比べてやや大陸側に近づくことが書壁予測により明らかになり、火山活動が今後さらに活発になる地域がより詳細になるなど、それらもM.C.labのコンサルタント業務として成果を挙げ、収益の拡大へとつながっていった。これらを主導していたのは紛れもなくカネコ氏であり、もちろん私はそれを理解していた。  デスクの後方でカネコ氏が小屋番に雑務を指示していた。そんな光景は小屋番が事務員かつ山小屋担当としてやってきたときから変わらない景色であったが、最近はカネコ氏の小屋番への風当たりが厳しくなっている気がしている。ただ、私や兄への態度は入山当時から変わらず、謙虚なものであった。イザコザにならなければよいがと私は思った。こんな狭い建屋の中で、それもここは地表から三千m近くの山岳地帯の山中である。そんなところでの諍いは大事になれば仕事がやりづらくなる。登山客はそんなことは昔から一番良くわかっている。ただでさえ息が切れて、苦しいのだから、楽しくなければ山に登る意味などない。楽しいと思えないなら我慢してやる必要などない。 「コーヒーでもどうぞ。」  そういって、カネコ氏が二つのコーヒーカップを私と兄の机に置き、何事もなかったかのように自席へと戻っていった。カネコ氏は成果を挙げ続けている。ただ、その後、ひときわ小屋番に強い態度を示しているのを私は何度か見たことがあった。それはコピー機が壊れたとか、山小屋の食事が冷たいとか、トイレが汚いとか。ただ、私はあえて見て見ぬふりをしていたのかもしれない。兄も時々、小屋番のことを気遣うようなそぶりを見せたりしていたが、カネコ氏を咎めたりすることはなかった。カネコ氏は私達には引き続き、謙虚だったのである。兄は六四才、私は五九才、小屋番は六十才であり、私を含め三人の老人と三十半ばの女性が山奥で暮らしているというのは部外者からすると奇妙なものだろう。私もそう思っている。私を含めた三老人は生涯独身である。私達兄弟は書壁の観察と解析に明け暮れ、小屋番は私達の身の回りの世話をやいた。カネコ氏はこの組織内の唯一の女性でありながら、書壁予測業務に関して、私達はこの三十半ばのカネコ氏に依存しているのは事実であろう。カネコ氏は私達に非難の目を向けることはないがM.C.lab立ち上げ後、私達が独自に公表した成果はほとんどないのである。書壁には日々新しい文字が追加され、未来に生じる事象が予測され続け、それをもとにカネコ氏は報告書を書き続けている。報告書は三人の共著として公表され、M.C.labは世界の進むべき未来予測を示していると世間や一部の研究者には認識されていた。火山活動の激化により傷ついていたこの国でさらなる変化が起きようとしていたのはそんな時である。                 *           ある時、カネコ氏がPC画面に向かって誰かと会話をしていた。 (はい。そうです。はい。その通りです。失礼します。)           事務的な口調で話しているカネコ氏の声がデスクの背後から聞こえてきた。クライアントとインターネット通話をしているのだろうと私は思い、クライアントはどんな感じ?うまくいっている?とカネコ氏に軽く聞いてみた。するとカネコ氏はくるりと椅子を回転させると立ち上がり、私の前まで来ると深々と頭を下げた。その反応に私は驚き、私も少し腰を上げてしまった。中腰の私の前で頭を下げていたカネコ氏は数秒後に頭を上げると、すみませんでした、私用の電話をしていましたと言った。 「ああ、それならそう言ってくれればよいのに。特に咎めることなどないよ。ちなみに誰と話をしていたの?」と私が聞くと、カネコ氏は夫ですと短く答えた。夫?と私は間抜けな声で反応してしまった。 (はい。そうです。勤務中に私用で電話をしていたことを謝罪します。) カネコ氏はあくまでその姿勢を崩すことはなかった。いやそれを咎めるつもりはないんだ、そう私はつぶやいて和達しはPC画面へと視線を戻した。カネコ氏が結婚していることはなんとなくそんな気がしていた。左手の薬指に銀色に光る指輪をしているし、入山時に履歴書の提出をしてもらっていたが婚姻履歴を記載する欄はなかったし、私達も婚姻の有無を確認することはなかったのだから。結婚していたとしても不思議ではない。ただ、カネコ氏は入山してから一度も下山したことはなかった。数年にも及ぶM.C.Labの生活において一度もなかった。そのことに私は驚いた。カネコ氏の夫とはいったい何者なのだろうか。ただカネコ氏からそのことを聞き出すことは到底できないだろう。電話口ではかなりかしこまっていたが夫との関係は?子供はいるのか?いやいるはずなどない。ずっと山にいるのだから?もし子供がいたとしたら夫が育てている?入山前に生まれた子供なのか?ただ、そんなことを考えたとしてもわかるはずはないのだ。                  * 「この追加文言の報告はどうしようか。」  兄がそう言ったのは昨日のことだった。そこにはこう書かれていた。 『大陸のさらなる拡大後、この国が大陸からの分離する』 兄はこの書壁情報を発見した後、すぐに私にその事実を伝えると、長い間自分のデスクに座り、俯いたり、天井を眺めたりして考えを巡らせているようだった。 この言葉を聞いた時、私はその意味を理解することができなかったし、大陸が分離するという現象を想像することもできなかった。大陸の一部であるこの国が分離するとはどういうことなのか。どこからちぎれるのか。海底火山活動や大陸縁辺での火成活動の活発化について書壁情報をもとに事前に把握し、地質雑誌に投稿までしていた兄も、今回新たに表れた刺激的な書壁情報に対し、本当にそんなことが発生するのか半信半疑であるように私には見えた。本当に大陸は分離するのか、そのメカニズムはどうなっているのか。兄が言うにはこれまで大陸が分離するという主帳は学会内でも現れたことはなかった。書壁情報をどこまで信じてよいのか、兄はこの新たなる書壁情報の取り扱いに苦慮していた。その時、この情報は一度私達だけで心の内に留めておくことを決めた。どこまでこの情報が信頼に足るのか、客観的に確認する必要があると考えた兄の科学者としての意地だったのかもしれない。ただその兄の迷いをあざ笑うかのように、その数日後にはこんな言葉が立て続けに書壁上部に現れた。 『背弧海盆の拡大とさらなる火山活動の活発化』 『この国の大陸縁の沈みこみ角度が変化する』 『大陸内陸部にてマントルダイアピルが上昇する』 デスクに戻ると、新たな書壁情報を呆然と眺めていた兄が声をかけてきた。 「直近に追加された書壁情報から考えるに、この国の東側に広がる海洋プレートの沈みこみ方向が大陸側に近づき、さらに合わせて、沈み込み角度が浅角化することがわかる。さらにその結果なのか、その原因なのかわからないが、背弧海盆の火成活動はさらに活発化するということだ。そして、背弧海盆の拡大と海洋プレートの沈み込み角度が変わるという二つの異なるベクトルがあわさることで、大陸沿岸部、つまりこの国の国土ではそこで発生する右横ずれ断層により大陸から分離していくというシナリオだ。それは理にかなっている。ただ、こんなことを主張していた地質学者は過去に一人もいない。」  私は兄の勢いに、深くその話に聞き入った。冷めたコーヒーを一気に飲むと兄は立ち上がり、どうするかなあと小さくつぶやいた。 「それはこの事実を公表するかどうか迷っているということかい?」 私が兄に質問すると、兄はもちろんそうだとばかりにゆっくりとうなずいた。 「どれくらいの人々がこの山奥の書壁予測を信じているのかわからないがカネコ氏のおかげで、このM.C.labもある程度認知されている。学者連中が信じていないことは明らかだが。」 「まあ、そうだよね。公表するかどうか、悩ましいな。」  兄の複雑な内心は私にはよく理解できた。カネコ氏に多大な成果を出されてしまっている中で、今回の発見は兄にとっても公表し、研究者である私達の威信を取り戻したいのだろうと思った。ただ、本当にこの書壁予測が正しいのかということに対して、すべてを信用できているというわけでもないだろう。私もほとんど同じような気持であった。私達は思い悩んでいたわけである。                  *  あれから一か月がたった。兄はまだあの事実を公表するかどうか判断あぐねていた。なんにおいても、年を取ると判断が鈍るものである。 「兄さん。あのことの扱いはどうするのかい。」 兄は険しい顔をしているだけで答えなかったが、表情がすべてを物語っていた。 私は兄のデスクの横で話しかけた。今日の山上建屋は深い霧に覆われている。山中では天候の変化は激しい。ただ、今日は一日中ガスに覆われている。建屋内から見た外界の景色は何も見えない。こんな時は本当にこの世の果てに取り残されたような気持ちになる。 「まだ決めかねている。」 私達はぼそぼそとした声で話していた。小屋番は頭が痛いと言って三階の居室に籠っていた。 「何を二人で話しているのですか。」 背後から声をかけられて私達ははっと同時に後方に目を向けた。そこにはカネコ氏がいて、兄がの書きかけの論文の映ったPC画面を眺めていた。 「それにこの図はなんですか。図ではこの国が分離していますが。何の図ですか。」 「いやなんでもない。」 兄はとっさに口走り、口先でお茶を濁したが、カネコ氏の追及は止まらなかった。 「これはもしかして書壁予測で書かれた大陸の未来の姿ですか。」  カネコ氏は鋭かった。すぐにその図が何を意味しているのかを理解したようである。 「この国が分裂して大陸から分離していると書壁に示されたのですか。なぜそんな重要なことをすぐに教えてくれなかったのですか。」 カネコ氏は穏やかな顔をひきつらせて私達に詰め寄ってきた。想像していた通りの反応であった。 「いや。報告しなかったことに特に深い意味はない。ただ報告していなかっただけだ。」 六十才前後の老人二人が三十半ばの女性に叱られて、体を小さくすぼめていた。 「まあ、いいですよ。新しく、有用な情報が出てきたらすぐに教えてください。書壁予測のプログラムに組み込みます。ただ、今回の情報(大陸の分裂)という事実が与えるインパクトは計り知れません。あらゆる事象に影響を与えるでしょう。」 「そうなんだ。世間への影響が大きいから情報の開示方法に苦慮していたんだよ。」 「なにを言っているのですか。希少な情報にこそ価値があるのです。これを利用してさらにM.C.labの価値を高めないといけない。」  カネコ氏は身長一五十㎝弱の小柄な女性だったが、詰め寄られるとその圧力は想像以上であった。さらに小さくなってしまった兄を見るにつけ私も共に叱られているような気持ちになった。M.C.labの資産価値がどうとか言っていたがどうにも私達はだいぶ遠くまで来てしまったようである。何かから離れていく時、その距離など認識せずにじりじりと距離を稼いでいくのだが、一息ついたときに初めて遠くまで来てしまったことに気が付くものである。書壁予測は長い間私達が研究してきた地質学や言語学から遠くかけ離れたところで発展を遂げ、さらに現在進行形で私達から離れ続けているような気がした。 語尾を強めて私達を咎めたこと、兄が意気消沈していることに気が付いたカネコ氏は、はっと再び柔和な笑みを作り直し、兄の椅子に座ると、PCのキーボードをカタカタと打ち始めた。 「ちょっとPCを借りますね。この作成途中のものでよいのでこの論文をプリントアウトさせてください。」  兄は小さくなって研究室を出ると三階の居室へ上がっていき、遅れて私も兄を追った。居た堪れない気持ちだった。研究室の入口近くにカネコ氏のデスクがある。その横を通った時、彼女の机上には小さな子猫の置物が鎮座していた。その置物は私の方をじっと見張っている気がした。
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