七 山岳宗教法人

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七 山岳宗教法人

 兄が大陸分離の記述を書壁上に見つけた後、その事実は私達が想像していた通りにカネコ氏が利用した、というのも、この事実は一部の投資家やアナリストに事前に伝えられ、M.C.labは優先的に情報を渡す代わりに、彼らのバックアップを受けることができた。カネコ氏はその窓口の渉外役として、業務をまとめていた。すべてはカネコ氏のなしたことであった。結局兄は大陸分離説を論文にして、地質雑誌に公表することもなかった。  ただ、驚いたことは大陸分裂説を一部の顧客に先行して公表した約一年後に、ついに大陸が割れたのである。この時間スケールでここまでも大きな地殻変動が生じるのはこれまでの地質学では考えられないことであった。ただ、将来起こることの詳細を科学では語ることはできない。それができるのは書壁予測だけである。その様子はまさに書壁予想の通りであり、兄が予想したものと寸分たがわなかった。ただ、タイムスケールだけは書壁予測から推し量ることはできなかった。                 * 「ありがとうございます。よろしくお願いします。」 後方のデスクでカネコ氏が電話口で話している声が聞こえる。コンサルタント業の成功によりカネコ氏の元にはさらに多くの仕事が集まっていた。書壁予測を求める人が増えてきたのである。カネコ氏は私達の知らぬ間に若い女性を一人雇い、業務を手伝わせていた。M.C.labは三部門に分かれていたが、業務フロアはわかれていなかったため、電話口の音は良く響いた。ただ、カネコ氏が何を話しているのかは私達にはもう理解できなかった。収益のいくらかは他の二部門にも入金されていたため、山小屋経営を含めても、生活には困らなかった。カネコ氏に雇われた若い女性はカネコ氏の業務を手伝っていたが、それ以外にもこれまで小屋番が担っていた細々とした雑務を受け持っていた。若い女性は兄弟と同じフロアにいたが、小屋番はいつのまにかいなくなっていた。その女性がM.C.Labに入山した時、兄弟は何もそれに関与していなかった。関与しなかったというか兄弟の知らぬ間にその女性はデスクの片隅に陣取っていたのである。その女性は二十台前半くらいの年齢に見えた。どのような経歴でここにたどり付いたのかわからない。ただ、その若い女性は兄弟と目を合わせることはなく、お茶を入れるにしても、食事の支度をするにしても、掃除をするにしてもカネコ氏の作業スペースのみで兄弟の周りは日に日に汚れていった。兄弟もむきになっているのか知らないが、その若い女性と会話をすることはなかった。ある時、老兄が岩石サンプルを標本箱に戻そうとしていた。老兄の周りには堆くサンプルやら論文が積み上げられていた。若い女性がそのそばを通った時、その山が崩れ大きな音をたてた。老兄は慌てて散らかったそれらを拾い集めようと屈んだが若い女性は何も言わずに奥のカネコ氏のワークスペースへと消えていった。どうにも居た堪れない気持ちになったことは言うまでもない。老兄に方をちらりと見たが、うつむいたままでその場から立ち上がれずにいた。老弟もその時はその場におらず、手を持たぬ私には老兄を助けることはできなかった。                 * 年のせいもあるのだろうが、兄は一人で行動することが増え、その度兄はますます小さくなった。カネコ氏と若い女性と隔絶を感じるにつれ、老兄弟は山に入る日が増え、私達もそれに続いた。兄の後ろについて歩いていくと、その背中からは寄る年波にはかなわないという思いがにじみ出ているように見えた。兄が歩き回る速度はかつてに比べてはるかに遅い。ただ、ハンマーを背中の大きなザックに挿して、時折露頭を見つけては、ハンマーで叩きサンプルを観察するという行動は変わらなかった。 書壁の発見後、長い間土間に置いたままになった登山靴は、この年になってフル回転している。古い登山靴でも手入れしておけば、まだまだ使えるようである。兄の表情は暗い。ただ、十月も過ぎるとこの標高では日中でも肌寒い。兄は一人テントを持って山に出て、山上建屋に戻ってこない日もあった。一人山奥のテントで兄が何をしていたのか詳しくはわからないが、日が落ちてからもガスバーナーに火をともして、湯をわかしたり、簡単な料理を作ったりしていたのかもしれない。その姿は容易に想像ができる。地質学と言語学をベースとして、書壁の発見により付随して成果を上げてきたが、書壁予測が世間に広く知られると、兄弟の発見から始まった書壁予測であったもののそれを応用し、価値を生み出してきたのはカネコ氏であるのは周知の事実だった。情報科学に対して、兄弟が高度な知識を持っていないことは周囲の研究員達も知っていたし、M.Clabとして取材を受け、それに答えるうちに、それらは明らかになっていった。そのことは、兄弟が一番良くわかっており、さらに孤独とカネコ氏への依存を深めた。兄弟だけでなく、小屋番や私達も同じように孤独を深めていたのは奇妙に見えた。山奥の調査先の露頭の前に張られたテントの中がどうなっているのか私達にはよくわからない。日が落ちて、兄は前室の地面でガスバーナーの火を落とした。私はテント横の太いナラの木の根元に座り込み日中存分に動き回った体を休めている。周囲の音を収音し認識できるが、すぐに駆動することはできない。ヂヂヂとテントのとばりを締める音が聞こえる。画像認識モードもシャットダウンしているため、何が起きているのかわかないが、音だけを聴いていると兄はテントの中でラジオを聴いているようだった。 (新しい大陸が火山活動で作られたり分裂して消滅していく島があったりこれからどうなるのでしょうか。) ラジオのニュースの音が数m離れた私のセンサーにも聞こえてくる。解説者の教授らしき人が何かを解説している。兄のテントからはなにやら嗚咽のような声やキーボードをやたら強くたたく音が聞こえる。そんな休眠モードの中、咆哮とも思える獣のような叫び声が聞こえたことで緊急事態なのかと私は入電した。私は立ち上がらずに画像センサーの電源を入れた。画像が見えるようになると、数m離れたテントの前で、兄は書壁の方向を向き、立ち尽くしていた。澄んだ月光が私の体を照らし、そのなめらかで凹凸ある陰影を地面に写した。立ち尽くし、虚空を仰ぎ見て、同様に月光を浴びている兄もまた艶やかに輝いていた。兄の体は月光をも透過するかのごとく消えかかっているように私のセンサーには感じられた。 夜が明けると、私の体内の光電池は夜明けの一時間弱の陽光でその日一日の可動が可能となる。周囲明るくなると兄がテントから這い出てきた。採取した岩石を枕にして寝ていたかのように目には深い隈ができている。何かを失ったかのような兄の姿は周囲に唯一存在する私の姿をも認めたくないかのように目を伏せている。生活のために生きていくことと、何かを生み出して渇望することは異なる。実益が充足感に結び付かない兄の苦悩は深い。生きていくことを許されたとしても兄に自分で生み出した居場所を守るための気力はもうないのだろう。山上建屋はいつのまにか誰かのものになってしまったようである。                 *  いつの頃だったろう。あの胸躍るような興奮と充実感に満たされていたのは。これは私の記憶。現在私が持っている感情?老兄の姿は見るに堪えない。生きているだけの抜け殻。情熱を持って野山を歩き、調査して論文を読み論文を書いていた。あの情熱の炎はどこに消えたのか?私の中にはまだその情熱がある。ただこれはかつての老兄が持っていた若い情熱の塊なのだ。転石を枕にテントの中で寝ている今の老兄にもはやその姿を見ることはできない。ただ、老兄のかつての若い情熱は変わらずに私の中に生きているのである。                 * 「一人お客様が到着しました。宿泊棟に案内します。」 建屋の土間で一人休んでいると入口から大きな声が聞こえてくる。兄弟の大きな登山靴は土間に置いてある。山上建屋に出入りする人間が増え、登山客の宿泊を専門とする建屋が数年前に建設され登山客は主にそちらへ案内されていた。今の登山客もその一人だった。私がいつも待機している土間からは見えないがこれまで年老いた小屋番は最近見ることが少なくなってきた。三階の自室にこもっているのかもしれないが、私には知るすべはない。若い女性の小屋番が登山客を案内している。一階土間から三階までは吹き抜けのような形で書壁が設置されている。書壁が設置されているというよりも書壁を中心に建屋がそれを取り囲んでいるという形である。その吹き抜けからいつも日々変化する文字の流れを眺めていた。私のデータ容量には上限があるため覚えては忘れる。その繰り返しである。ただ、不思議と何かを覚えていたということを覚えている。かつての小屋番はどこへ行ったのか、私の視野外にいるのだろう。その行方には私は到底検討がつかない。変わっていつも入口付近で登山客を案内したり土間に新たに設置された売店にビールやスナック菓子、カップラーメン等の商品を陳列したりしている若い女性小屋番は毎日のように見ることになった。サンプル運搬や露頭までの荷物の運搬業務が与えられない限り私はひざを床についた状態で土間から一m弱の高さで水平方向に視線を広げるだけだ。若い女性小屋番はM.C.labとプリントされたエプロンを付けて、長そでのシャツにジーパンでいることが多く、いつもちょこまかと働いていた。土間を動き回っている時、一息ついている時に時々屈んで私の背中を見たり、触ったりすることがあった。 「この機械って何に使うんですか。私が来たときからずっとここに置いてあるのですけど。」 「これはNuという機械です。荷物を運んだりするものです。兄弟がよく使っていましたが、今はまり使っているところを見たことがありません。ただ充電モードで一階の邪魔にならない土間に置いてあるみたいですね。兄弟の私物ですので私には良くわかりませんが。」 どうやらカネコ氏と女性小屋番が私の頭上で話しているようであった。センサーには音だけが反応する状態になっており、私は会話だけを聴いていた。 「そうなんですね。知りませんでした。土に汚れているからもう壊れて動かないものだと思っていました。ところで二十名程の宿泊予約が入っているのですけれど、なんでしょうかね。二十人もまとめて登山客の予約が入るのは珍しいので。食糧を追加で荷上げしないといけないですね。」 「その二十人は新聞記者やテレビ局の関係者です。布団も屋根裏から下しておいてください。M.C.labのことを取材したいと連絡が来ていたため、一週間後にやってきます。これまでは取材は断っていたのですが、今回一度まとめて対応することにしました。宿泊準備と食事の支度をお願いします。」 カネコ氏はそう言って去っていった。去っていく彼女の背中を女性小屋番が長い間見ていた。私にはわからない感覚である。                 * 「ここで宿泊の手続きをしてから宿泊棟に行って荷物を置いてください。報道局の方達の部屋は三階奥の大部屋二室です。」  女性小屋番が大きな声で伝えている。M.C.labにて新聞記者やテレビ局の関係者向けの書壁見学会と説明会やそれに伴う質疑応答の場を用意したのである。カネコ氏のコンサルタント業務やそのための広告活動の成果もあり、そして何よりも数年前に予測していた大陸分裂、火山活動の活発化を事前に予測していたという事実が明らかにされたことでM.C.labの認知度は急速に広がっていた。兄弟は長い間マスコミの侵入を拒んできた。それは情報科学への自らの無知さを隠したかったのかもしれないし、M.C.labの創設者であり、書壁の発見者でもある兄弟がただそれを発見しただけであるということを隠していたかったのかもしれない。マスコミ関係者は大きな声で何やら話ながら自分達がそこにいるということを主張してやまなかった。宿泊棟に移動するまで彼らは口々に大声でこんな山奥まで歩いてきたことを愚痴っていた。土間にいるとその話声は非常に良く聞こえた。 (書壁を見るのは初めてだが、どんなもんだろうな。) (表向きはあの老兄弟がカネコ氏と成し遂げた成果となっているがあの老兄弟はいま何をしているのだろうか。)  (今日の見学会と説明会にも老兄弟は出席せずにカネコ氏だけが対応するらしい。) (カネコ氏がほとんどM.C.labを掌握しているのだろう。老兄弟はで表に出てくるのかな。) (まあ老兄弟が表に現れることはないだろう。)  マスコミ関係者たちの推測は十中八九、的を得たものであった。見学会が始まると、マスコミ関係者はM.C.labの土間に集められた。二十人程のマスコミ関係者の前に現れたのは、皆が想像していたとおり、カネコ氏だった。三階まで続く吹き抜けの土間からも彼女の姿がよく見えた。彼女はふわっとした黄色いスカートときれいに折り目のついた白いシャツを着ていた。 「本日はM.C.labの初めての見学会、説明会にお集まりいただきありがとうございます。今までこのようなマスコミ関係者の方達向への説明というのはおこなっていなかったのですがお越しいただいたマスコミ関係者の方々、世間の方々のご要望にお応えすべく、このような場を用意させてもらいました。」  土間から広がる空間は広々としていたが、M.C.labの古い山上建屋の入口は狭く、窓も少ない。二階、三階の南側に小さな窓があるが書壁のある吹き抜け側に窓は一切なく、建屋の入口を締めてしまえば薄暗い場所となる。様々な色に光り、今も増え続ける光る文字群を背景にして、彼女は後々書壁とされる黒色ノジュールの発見、言語学的規則性の発見、そしてそれを自らが応用し、獲得してきた成果を語った。  そして、これからも永遠に続くと思われる書壁の価値を語った。 「未来を予測するということは私達に様々な影響をもたらしてくれました。それは私達M.C.labにとってだけではなく、それを支えてくれているステークホルダーの方達へもうれしい影響を与えられているのではないでしょうか。このような未曾有の地殻変動の中において、この予測は一般の皆様達も享受することのできる大いに有用なものであると私達は考えています。」  見学後に行われた彼女による説明はまるで、演説のように、その一人舞台は幕を閉じた。書壁の光輝く文字群は彼女を背後から照らすスポットライトだった。彼女の数分間の演説は終わると、拍手の音が聞こえると共に、入口近くではさらに大きな歓声が時間差で聞こえてきた。音だけを聴いていた私は気が付かなかったが、いつの間にか入口にはマスコミ関係者以外にも数十人の人が集まっていた。老兄弟と小屋番はどこにいるのだろうとふと思った。山上建屋のどこかの部屋でこの歓声を聴いているのだろう。正確無比な未来予測はある種の予言と変わらない。                 * (彼女の昨日の演説を聴いたか。) (聞いた。聞いた。) (すごい演説だったな。もうマスコミだけではなく、一般人も数十人くらいいたんじゃないか。老兄弟もたぶんあの演説を山上建屋の三階で聴いていたんだろうな。) (もうM.C.labは彼女のものになってしまったのかもしれないね。老兄弟はもう立ち直れないかもしれない。四十年程、彼らと共に暮らし、彼らを見てきたが今後どうなるのだろうね。) (それはわからないね。ただ彼女という存在を私はまだ把握しきれていないと思う。存在が謎なんだ。そう思わないか。なぜ彼女は一人でこんな山奥まで来たのか。老兄弟と三人で暮らしていたんだ数年前まで。今はここで働く人も増えてきたけど昔は三人と私達だけだったんだ。) (そうだな。そしていつのまにか彼女はこのM.C.labを掌握してしまったんだ。) (もしかしたら、M.C.labだけではないのかもしれない。他の一般人も含めて掌握しようとしているのかもな。) (昨日の演説を思い出してみろよ。とても熱狂的なものだろう。マスコミもそうだし、一般人も数十人いたようだし。彼らは彼女の言動に夢中になっていた。) (そうだな。それは間違いない) (あれはなんかおかしいぜ。) (間違いない。みんな彼女に熱を上げすぎているように見えるな。やりすぎだぜ。老兄弟はとうの昔に彼女に置き捨てられてて、書壁をまとった彼女には誰も逆らえない。) (そりゃそうだ。来年何が起きるか。もしくは半年後に何が起きるのかを言い当てることができて、それを社会的に発信することができる彼女に従わざるを得ない。) (老兄弟はとうの昔に退いていたのだな。他者を受け入れずに隠し通してきたことだが、綻びが生まれ彼女にその主権が移管されたことが昨日明らかになったんだ。表向きは老兄弟の組織だが。それももう終わりか。) (残念ながらそういうことだ。昨日の報告がとどめをさした。老兄弟と彼女の立場はあっという間に変わった。変化が起きる時、内部でそれは徐々に進んでいる。外部の人間にはわからない。ただ外から見ていると変化するのは一瞬なんだ。) (昨日、入口近くに集まっていた一般人たちの集団をみたか。) (いや見ることはできなかった。けれど音は聞こえた。) (あれはもう一般人には見えない。あれは司教を崇拝する信者となんら変わらない。この危うい不安定な世界で、書壁予測は宗教になってしまった。彼らは彼女を神格化しようとしている。入口で彼女に手を合わせている一般人もいたぜ。書壁は実益性だけでなく、実益性を超えたところまで来ている。) (人間の心程、宗教の入り込む余地のあふれた場所はないと思うよ。) (今後のM.C.labはどうなるのだろうか。) 充電中の二台のNuの会話は書壁の前で数時間以上にわたって通信された。
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