八 嘆きの壁

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八 嘆きの壁

 書壁の前の土間には百人近くの信者が集まっていた。モルタル張りの土間も三十年近くの年月により劣化が進み、所々に割れや崩れが現れている。ただ彼らは気にすることなく、そのコンクリートの上に跪いて彼女が祭壇上に現れるのを待っている。入口にあったかつての売店や、エントランスホールに飾ってあった風景写真は取り外され、より多くの信者を収容できるように、だだっ広い空間だけが広がっている。山小屋としてかつて機能してきたときの名残は見えず、寒々しい。私は書壁の裏の固定電源に長い間充電されていた。カネコ氏に掌握された後、老兄弟は地質調査をやめてしまった。もう七十才を近くになり、やっと年相応になったのかもしれない。 老兄弟が山歩きをすることをやめてから私はこの書壁裏の充電場所から動くことはなくなり、ただこの場所から行きかう人々を眺めていた。高らかに彼女が自らM.C.labを率いるようになってから二年が経過し、M.C.labは宗教法人としての活動を始めた。私の見える範囲でも、訪ねてくる人数は拡大した。老兄弟や小屋番の姿を見かけることはなくなった。さらに、私の充電場所の前に大きな祭壇が設置され、土間側の視野が限定された。ただ、大勢の人間が書壁の前にやってきては、地に額を擦りつけて、敬意を示したのちに、三m高の書壁の手の届くあたりに、額を擦りつけて去っていく姿を何度も目にした。それは信者だったのだろう。書壁は科学的な価値、かつ信仰の対象として その存在意義を高めていった。それは彼女の影響である。 信者達は『彼女』を前にして、毎日、言葉を待つだけの存在になったかのように見えた。日々二行追加される啓示に信者は夢中になった。彼女に骨抜きにされたのである。彼女の啓示が信者の次の行動を決めているように私には見えた。信者達は書壁が生み出す無償無限とも思える『正』の情報を無尽蔵に得られることを喜び、次の日の言葉を待っているようだった。日に日に山上建屋の前で啓示を待つ信者の数は増えていった。啓示を待つ彼らはただ無償でもたらされるものを考えなしに享受し、喜び、それを誇示するだけの存在に見えた。無条件に与えられる正の情報は考えることを奪ったのだろう。私にはそのようにしか理解できなかった。老兄弟が書壁を発見し、調査を重ねた北壁に、M.C.labが建ち、さらに山岳宗教法人となった。M.C.labを中心としたこの山域は信者にとっての聖地となり、書壁は啓示を与える総本山となった。四十年以上この地にとどまっている私にとってそれは感慨深いものであり、この四十年という歴史を振り返ると一抹の寂しさがあった。                            *  土間には、いつものように信者が集まっているが、いつもと雰囲気が違っていて、皆落ち着かない様子だった。 (今日は彼女が登壇するらしいよ。) (そうらしいね。宿泊棟に長期滞在している人が話していたけど、これまでの登壇周期からすると、そろそろらしいよ。) (彼女が祭壇上に現れるのは、いつも正午だよな。それに今日はまだ書壁にお告げが表示されていない。)  (そろそろかもしれないな。)  山上建屋にはすでに数百人が集まっているように見えた。全員が建屋内に入れないため外まであふれている。信者達の会話を聴くと信者は数万にも増えているとのことだった。そろそろ彼女が現れるようである。どんな人物が集まってきているのか見回しているとかつて売店で働いていた若い女性小屋番やカネコ氏のもとで働いていた若い男性職員の姿が見えた。  周囲のざわつきが大きくなり、信者の視線が書壁前に設置された祭壇に集まっているのがわかった。彼女が現れたのだ。いつの間にか信者達は整然と列をなし、自らの身体を体で表現するかの如く土間に跪いて頭を地面にこすり付けんばかりに平身低頭し、自らのこころをすべて彼女に委ねている。私と彼女だけが静かにこの景色を見ることができる。ちらりと視野を動かすと彼女はやさしく微笑んでいた。祭壇上に現れた彼女は書壁の方へ体向を変え、一礼した。そして、書壁中央部約二m位の高さに、光輝く一文が新しく追加された。 『南方で新しく島が生まれる。』 大仰な言葉で新しく追加された書壁の言葉を彼女は読み上げた。信者達は一度頭をあげ、彼女の方を一斉に仰ぎ見ると再び、彼女のおつげにありがたそうに平身低頭にひれ伏した。                       *  深夜、誰もいない一階土間で物音がして私のセンサーに電源が入った。停止中でも一定以上の音量に反応し、私の体はブーンという音を立てて目覚める。信者の誰かが一階にいるのかもしれない。休止モードから音に対してはすぐに反応できるが、画像認識できるようになるのに三分弱の時間がかかる。がたっという物音が聞こえた後から、他に音は聞こえてこないが、確実に誰かがそこに立っているのはわかる。小さな衣擦れ音のようなものと、何かを啜るような音が聞こえる。五分程してやっと画像が見えるようになると書壁の前で立ち尽くしている老兄の姿が見えた。私の電源が入ってからすでに五分が経過しており、老兄はその間ずっとそこに立っていたようである。 「なんでこんなことになってしまったのか。私は科学者なのにこんなに遠くまで来てしまった。盲目の信者を従えて彼女はどこへ私達を連れて行くのだろう。」 老兄は書壁の前で一人誰にでもなく呟いている。それは書壁に対する懺悔の思いを吐露しているように私には見えた。 「予測が予言になったのは彼女のせいだ。私はどこで誤ってしまったのか。ただ岩石を調べて、その成り立ちを明らかにすることだけを望んでいたのに。」 老兄は涙を流していた。七十才近くの老人の涙ほどつらいものはない。若い女性の別れ話の涙とはその濃縮度合もまるで違う。土間は信者達に常に開放されており、より多くの信者が書壁まで訪れて跪けるように、山上建屋入口のドアは撤去されてしまっていた。そこには何もない空間が広がっている。ただ、信者達はこの建屋に住むことはできず、かつて山小屋があった場所の宿泊棟に寝泊まりしている。入口ドアが無くなり、それは隙間風がとめどなく入り込んでくることを意味する。老兄弟と年老いた小屋番はいまだ山上建屋に暮らしている。ここは信者の聖地であると同時にM.C.labの研究拠点でもある。年老いた三人にとってこの隙間風だらけになってしまった建屋は住みにくい場所になってしまっただろう。 さらに隙間風だけでなく、この標高では夜の放射冷却がさらに厳しく、朝夕の寒暖差による岩石の体積膨張収縮のサイクルは書壁を著しく劣化させたようだった。 書壁保護の観点から建てられた山上建屋で、信者のために外壁を取っ払うとは時代が変われば、人々の考えも変わるものである。私にはその論理的継続性を理解することはできなかった。寒暖差により書壁の岩石は急速に風化しているが、それも彼女が選んだ道なのだ。 「学術的に価値があるこの書壁もやがて崩れ落ちるだろう。信者ではない残された私達三人もやがてここを追放されるだろう。何かにすがっているだけの人間には冷静な判断などできるはずもない。正か誤か彼らが欲しているのは明確な判断を下してくれる強大な何かなのである。その強大な何かに対して正義の是非を問われることはない。」  入口から月明かりが土間の内部まで入り込んでいる。書壁は月光の元に照らされ、夜露にぬれた書壁は老三人と同じように涙を流している。書壁に付着した夜露が月光にあたり、光っている。老兄が予測した通り、信者は年老いた三人に対して拒絶反応を示し始めた。なぜ彼女を信じないのか。なぜ、あの三人はこの聖地である書壁に居を構え、定住しているのかと。とにもかくにも無考な人間は罪深い。                              *  書壁にはこのように新しい一文が追加された。 『三老人は彼女の意の元に私に取り込まれた。』と。 書壁の中央部の過去を示す一文として追加された。三老人は歩くことも儘らないまま、祭壇上に連れてこられた。周囲には数百人の信者に取り囲まれている。そして次の一文が同じく書壁中央部に表示された。 『さあ、この皿の上に横たわり、私の口の中へ入ってきなさい。』と。 三老人は腰から崩れ落ち、書壁に手をついた。彼女を彼女と書壁へ、その身をささげるため、三人はお互いに祭壇の前に設置されている三本の刃をそれぞれ手に取った。老兄は小屋番に、小屋番は老弟に、そして老弟は老兄の皺だらけの首元に細い一筋の刃を当てた。彼らはとうの昔にぼけてしまっているのかもしれないが、私にはわからない。首筋も皺だらけのため、鮮明な一筋の血痕とはならないが、三人の首筋には鈍く血がにじむのは私の画像センサーにもよく見えた。老弟の手元は緩やかに震えているよう見えた。老兄の目はどこか遠くを眺めていたが、やはり同じように震えていた。小屋番は細く目を閉じていて、老弟の首元には血がにじんでいない。三者三様の首切り姿に信者達は目を奪われ、熱狂している。それは彼女を信用していない三老人を自分達の手で葬り去るのだという強い思いである。自らは手を下さず、刃物で年老いた三人を切り刻んでいるという思いに彼らは熱狂したのかもしれないが、機械である私にはわからない。ただ私はあの老兄弟の元で使われていた四十数年の歳月があるだけだ。祭壇上では年老いた三人が彼女の前に跪き、三人の首元にその刃を当て、兄の首元の血量は確実に増えている。信者の熱狂はさらに増していった。兄の首にはあきらかに数㎜の深さで刃が入り込み、血のにじみ滴り落ちる程度になっている。 その時、右方から一つの大きな塊が祭壇の上に現れたと同時に私の体も自然と共鳴するかのように飛び跳ねていた。充電中の固定コードが引きちぎられて空中に舞っているのが視界の隅に見えた。私の視界は思いのほか広い。それは右方から飛んできた物体とも一致する動きを見せた。それは私と対をなすNuだった。そのNuはまず老兄の首に当たっている刃を取り払うべく、目をきつく瞑り刃を押し付けている小屋番を地に押し倒した。刃は乾いた音を立てて祭壇上に落ちた。はっとして老弟も老兄もそれぞれの首に押し付けている刃の力を緩め首元から離した。祭壇上には私ともう一つのNu、そして三老人、さらに『彼女』が集まった。何か大きな声で叫んでいる彼女と興奮して祭壇上に上がってこようとする信者を私は一瞥した。ついに、祭壇上には興奮した信者が登り、その後方にはさらに多くの信者が続いている。彼らは三老人を切りつけろ、踏み殺せと言って大いに気を挙げている。私達は手近にいた信者に鋼鉄の歯を立てて噛みつき、食い散らかした。一瞬ひるんだが、信者達は引き続き後方から次々にやってくる。私は書壁の真下で私達の立ち回りを高みの見物している彼女の元へ飛びあがり、彼女の首元にその鋼鉄の歯を立てて噛みついた。赤い血しぶきが飛び上がり私の視界を遮った。信者は恐れおののき、地にひれ伏した。その隙を逃さず私は小屋番と老弟を背に乗せ、もう一方のNuは老兄を背に乗せると入口近くの土間へと飛び出した。下には多くの信者達が跪いて書壁に頭を垂れていたが、私達には関係ないことだった。一気に風を切る勢いで、山上建屋を出た。私達はそのまま一気に登山道を駆け下りていった。三十年ぶりの下山だった。三老人達にもう自力で下山する力は残されていなかったが、私達が彼らを下山させたのだった。私達がこの場を去った後、後方では何か騒ぎ声が聞こえたが、私達には関係のないことであった。                                 了
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