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暗くなって人通りは増えるのにお店は静か。たまに来た客に、
「ありがとうございます。これ、サービスです」
とイサさんは売れ残りのパンを押しつける。
「値引きとかしないんですね」
「うん、面倒だから。よし、閉めようか。夕飯、シチューだけど食べる?」
「はい」
余った丸いパンを5枚にカット。
店の奥が住まいのようだった。
「お邪魔します」
「どうぞ。汚いからそのスリッパ使って」
「はい。1人暮らしですか?」
ダイニングが黄色と青のレトロな床。テーブルは荷物置き場。
「うん。テレビが好きなのでいつも居間でごはん食べてます。呼び出されたら飲むけど家で晩酌はしないな。料理も掃除も好きだし、趣味もなし。金のかからないいい亭主になると思うよ。稼ぎも微妙だけどね」
亭主という単語にはっとした。居間のストーブをつけてくれる。古いストーブが徐々に赤くなる。
「結婚って、本気ですか?」
私は聞いた。
「うん」
台所に立つのが似合っているのは白衣のせいだ。
「どうしてですか? 私なんてひきこもりで、今日だって家の人に会いたくなくてここに戻ってきちゃったのに」
「ははっ。素直でいいじゃない。はい、これ運んで」
「はい」
サラダと湯気の立つシチュー、カリカリに焼いたパン、ほうれん草のおひたしと、新生姜が年代物の円卓を彩る。
「食べよう」
イサさんはあぐら、私は正座。
「はい。いただきます」
「いただきます」
シチューを一口。うん、おいしい。チキンとブロッコリー、人参、玉ねぎと存在感たっぷりの丸ごとのゆで卵。彼がパンをシチューに浸すから真似る。
「4日目のシチューはどうですか?」
イサさんが聞く。
「そんなに?」
「冬は悪くならないし、パンにも合うしね」
あまり知らない男の人なのに、不思議と怖くない。知らない人について行ってはいけないと小さいときに言われたけれど、雇用主だし、料理がうまい。こういう料理、どれくらいぶりだろう。人が作ってくれたものって、おいしい。
「おいしいです」
「よかった。パンもそんなに残らなかったし、今日はいい日」
テレビはどれもつまらなくて、CMのたびにチャンネルを変える。それがなんだか微かに記憶している団欒を思い出させた。まだ母と思っていた人とあんあんがいて、当然だけれど心愛さんはいなかった。幸せだった時代を知らなければ苦痛を感じることもなかったのだろうか。
私はシチューの中のゆで卵と格闘中。どうして丸ごと入れたのだろう。謎。おいしいけれど、シチューの具には適さない。邪魔。半分に割って口に放り込む。熱い。うまい。
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