パンが食べたいだけで

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 ひきこもっていたときは季節も曜日も関係なく、時間にさえ無頓着だった。朝だからって起きなくていいし、夜も寝なければいけない境遇にいなかった。もちろん恋を知らず、セックスも未知のことだった。いつかする。そう思っていたけれど、しないまま私は27歳になっていた。  ひきこもりは大人になってから。仕事というか、職場が合わなかった。理由はそれだけ。私が弱かったのだろう。どの職場にも嫌な人や合わない人がいる。そうやって社会を学ぶべきなのに挫折した。見方を探すことも自分が正しいと訴えることもしなかった。新卒で入社した隣の席の先輩の圧にどうしても耐えられなかった。大人になったのに、彼女から、 「まおまお」  と呼ばれることが嫌だった。私も悪かったし、私の名前もよくなかった。平仮名でまお。考えあぐねもせず、先輩がすぐに私を『まおまお』と呼び出した。私は『まおまお』に見合う顔をしていない。どちらかというと地味。目のぱっちりとしたきれい顔の先輩は私をかわいがりたかったのだろうと思う。でも私は仕事がしたかった。ミスを見つけるとため息。同じ失敗をした日にはぐちぐちと小言。彼女が毎日3時にくれるひと欠のチョコレートを飲み込むことさえ苦痛。ストレス軽減を謳っているそのチョコレートを受け取ることがまさにストレス。  職場に馴染めない私は仕事を教えてくれるその先輩を大嫌いになってしまい、出勤が辛くなる。最初のうちはまだ大学時代の友達に相談ができていた。 「うちの会社にも面倒な先輩いる」 「うちも。お局通り越してミイラって呼ばれてる。肌がカッサカサなの」  と友達たちは笑っただけだった。どこも似た境遇。安月給に退屈な仕事、窮屈な人間関係。笑い飛ばせない私は翌朝から胃痛で出社できなくなった。  そんな私を、 「弱い」  と父は罵った。無断欠勤を続ける1人暮らしの娘に電話をしてきて言うことじゃない。その世代の人はみんなそう。思い込みが激しくて、一方の面からしか物事を見られない。  ずっと無理をしていたの。1人暮らし、大学、バイト、就職。頑張ったのに。仕事だって、やりたいことじゃなかった。生きるために仕方なく選択をし続けた。だからおかしくなるのは当然だった。  アパートの保証人が父だった。滞納が続いて、実家に連れ戻された。故に、社会人経験は半年にも満たない。  実家に戻ることになったけれど、うちはフクザツだった。父が若い女の人と再婚をしたのは私が高校生のとき。心愛さんを最初に紹介されたとき、自分とそう歳が変わらないことにびっくりした。 「ココアです」  と笑った彼女を犬みたいだなと思った。本物の犬まで我が家に連れ込んだ。ミルクという名の白い豆柴は私に向かってキャンキャン吠えた。まるで私にはなつきませんと宣言しているように。  だから逃げるように大学進学を機に1人暮らしを始めた。わざと少し離れた大学を選んだことを父と心愛さんも勘づいていただろう。  母がいなくなって思春期を迎え、それでも父とうまくやっていたと思っていたのは私だけだったのだ。2人の生活は嫌じゃなかった。でも1人になって、どうしようもなく寂しかった。父は耐えられなかったのだろう。娘では補えない愛があることを知ったのはだいぶ経ってから。  まさか、先輩が嫌だという理由で仕事を辞め、実家に帰ることになるなんて。たぶん病院に行けばよかったのだろう。その判断もできなかった。家に帰ることと先輩の下で働くこと、或いは他の仕事を探すこと、うまく天秤にかけられず、冷静になれなかった。  高校生のときは我慢して一緒に暮らしていたが、大人になったのだから他人のような心愛さんと同居は無理だと思うけれど無職の居候の身でそんなこと言えるはずもない。私を車で迎えに来た父はずっと黙っていた。大学時代、夏休みもお正月も一度も帰らなかった。理由をつけたわけじゃない。帰って来いとも言われなかったし、会いたい人もいなかった。家に近づく。断腸の思いという言葉が今、身に染みる。どうにかならないかと模索することさえ面倒になったらもうだめだ。懐かしい風景。だけれど、もう他人の家に見えた。  久々に実家に戻ると庭にはプレハブが用意されていた。 「まお、お前はそこで暮らしなさい。心愛が用意してくれたんだよ」  邪険にしたつもりなのだろうけれど、1人のほうが絶対に落ち着く。 「ありがとう」  とそこに入って、そのまま。父は私を放置。よって、自動的にひきこもりになりました。  私の1人暮らしの家賃を支払うよりもここに閉じ込めておくほうが経済的だと父は考えたのだろう。バス、トイレ、水道完備。すぐにお湯が沸くポットもあった。  気楽なこともあり、そこが私の全世界になるのはあっという間だった。
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