パンが食べたいだけで

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 アーケードを抜けた。 「この辺は顔見知りばっかり。駅の向こうに新しい店ができたらしいから行ってみたくて。フレンチだけど気軽そうな店だったよ」  イサさんが足早に歩きながら言った。 「このへん、昔は私も来てたんですけどね。あ、映画館がなくなってる。こんな店あったかな。人通りも少ない」  おしゃれな真っ白な店と今にも倒れそうな店舗が並んでいる。 「アーケードの中でこれなんだから、うちなんてやばいよ」  まだ営業時間内なのにのんびり外を歩いている店主が言うことじゃない。 「それにしては楽観してますね」 「なるようにしかならないじゃん? 足掻いてもしょうがない」  パンは生活必需品に近いから潰れるということはないのだろうか。  そこはお肉の部位だけが黒板に書かれている小ぎれいな店だった。メニューには日本酒とワインしかない。 「ビールもあるって」 「お任せします」  片仮名ばかりのメニューを見ているだけで目が回りそう。  イサさんはお店の人と焼き方とかおすすめを聞きながら注文をしてくれる。そういうのに憧れる。どうしたらそんなふうになれるのだろう。ひきこもりを脱却したばかりの私にはこのお店の空気を吸うことすら憚れる。  おしゃれな店だ。きれいな白い壁。吊るされたガラスの照明がかわいい。  まだ早い時間だからお客さんは私たちだけ。そのうち常連ぶったお洒落さんたちだらけになったら退散しよう。  ビールは琥珀色のすっきりする味。ワイングラスに注がれてきれい。 「乾杯」 「おいしい」  お酒なんて新入社員の歓迎会以来。大人なのに飲んでいなかった。もう酔ってしまいそう。イサさんはぐっといい飲みっぷり。  オイルたっぷりのサラダ。 「ナッツ入ってるね、香ばしい」 「はい、おいしいです」  イサさんは3年前からあの店を引き継いだそうだ。元々はおじさんがやっていたらしい。 「おじさんには娘がいるんだけどバリバリの仕事人で継がないって言うものだから、家ごともらった」  と飄々と話す。 「あとで揉めませんか?」 「刑事だから大丈夫じゃない?」  おじさんの癌が発覚して、修行ができたのはたったの10ヶ月だけ。 「おじさんの残してくれたレシピ通りにやってるのに売り上げが落ちる一方で。でもまおさんに出会えて、なんか急に店の空気が変わった。君がラッキーを運んできてくれた気がする」  そんなに目を輝かせないで。 「むしろ疫病神ですよ。ひきこもりですもん」  そこで肉が運ばれてきた。 「イチボとめがねです」  イサさんが、 「このへんとこのへん」  と自分の体で示してくれるのがおかしい。 「いただきます」 「おう、うまい」  熟成肉というのが初めてで、噛むほどにおいしい。 「めがねのほうが好きです」 「そっちのほうが高いからね」 「ごめんなさい」 「なんで謝るの? 変な子」  豪快に笑う顔が好きだなと思った。なんだろう。気になる点がひとつもない。歯並びとか、箸の動かし方とか、ごはんを食べているときの会話など、好きになった人でもなにかしらひっかかるのに。
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