パンが食べたいだけで

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 丸い月がアーケードに隠される。席が足りないのか、店の外にまで椅子を置いて騒がしい居酒屋がある。楽しいと迷惑は別物だ。道の脇にゲロまであった。アーケードの下では雨が流してくれない。近くのお店の人が片づけるのだろう。  プレハブにひきこもっていたらきれいな月も汚いゲロも見なかった。この手のぬくもりも知らないままだった。  どっちがよかったのだろう。 「あ、車」  と手を引いてくれる。  プレハブとイサさんだったらどちらが私をより守ってくれるのだろう。プレハブを守りたいとは思わないけれどイサさんを守りたいとは思うし、絶対的にプレハブの中よりも楽しい。温かい。  アーケードの真ん中くらいでイサさんが貸店舗の店を見上げる。移転を考えているのだろうか。 「もうちょいで満月だね」 「はい」  おかしな人。喋らなくても安心する。  家に帰ってキスをした。 「今日はやめとこうか。また血が出ちゃうと困るし、あんまり酔っちゃうとできないんだ」  とおでこをくっつける。 「はい」 「一緒にお風呂に入る?」 「それは嫌です」  イサさんがお風呂に入っている間にシーツをセット。凝視しても血の跡はない。よかった。  帰り道のコンビニで顔に塗るゲルだけ買った。面倒くさがりの私の肌にはそれで充分。パジャマもイサさんのものを借りた。借りっぱなしだ。どうやって返したらいいのだろう。  いろんなことを私は知らない。『好き』はわかる。『愛してる』はわからない。差というか違いはなんだろう。 「おやすみ」  と言い合って、またキス。口の中を舐められる。  死ななくてよかったな。たった1回のセックスでそう思う。死にたい瞬間はたくさんあった。死んでしまったら、こんなことしていない。 「ふぅ。窒息します」 「ごめん」  窒息したいって言っちゃいたい。  寝ているはずなのにイサさんの手が私の尻を揉む。無意識? わざと? 変態? パンだと思ってる? 絶対に眠っている。変な人。明日聞いてみよう。  この間まで全く知らない人だった。それがもう婚約者。受け入れたというよりは、馴染んだ。大人だから、嫌いだと思っていた食べ物が突然食べれたりするのだ。  昨晩の睡眠不足のおかげで今日は眠れそう。プレハブに帰らなくても困らない。あそこが私の小宇宙のはずだったのに。私が生きていようがいまいが父にも無関係なんだなとしみじみ実感。プレハブには小窓しかないが、目を凝らせば電気がついているかぐらいはわかるはず。もう2晩もあそこで眠っていない。心愛さんは他人だけれど、父もいつの間にかそうなってしまった。  人間は弱いから、傍にいる人を、自分に優しくしてくれる人が一番になってしまうのかな。私も娘なのに父に優しくできなかった。距離を取って、一方的に嫌ってしまっていた。  私は幸せですよ。男の人の腕の中で眠っています。暖かくて、ほわほわします。この気持ちも習わなかった気がします。イサさんも他人です。でも、私をなんともいえない優しい気分にしてくれます。
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