パンが食べたいだけで

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 バターロール、ぶどうパン、クイニーアマン、たまごのサンドイッチ。硬めのエピもいいな。甘いのが挟まったクロワッサンも食べたい。いや、ここはカレーパン一択だ。  いつもなら自制できた。外は魔物でいっぱいだと自分に言い聞かせる。こんなところにひきこもっているのが楽しいわけない。しかし、ここにいるのが自分を守る術だったから出れずにいた。  こういうときは、ベッドはないからぺしゃんこの長座布団に身を屈めて寝ちゃうの。最初はふかふかだったのに2ヶ月も経たないうちに煎餅布団。幾度か買い替えた。前任者を捨てられずに5枚重ねているからもはやマットのよう。寝れば、忘れる。嫌なことも欲望も。  あれ? 「だめだ」  1人なのに言葉を発していた。ガムとか煙草だって我慢できるのに、パン欲が脳から消えない。邪念よりも強い。  ひきこもっていた当初、私はいろんなものを恨んでいた。まず先輩、それから親、心愛さん、友達。私から離れていった人。助けてくれなかった人。私が恨んだのは20人足らず。世界には70億人以上の人がいるのに、少ししか知らないその人らを恨んでもしょうがない。ひきこもってそれに気づいて、もう恨みはない。それでも眩しい外に出ることが怖かった。だから、いつもゴミと洗濯物は夜に外へ出した。  他のことを考えても、全てがパンへ辿り着く。  ぐるぐるベーグル。ころころコロネ。  舌が欲する。コーラじゃかき消せない。歯が噛みたがる。叫ぶように歌って踊ってみたけれどお腹が空いただけだった。  時計は午後の2時。もう少ししたら小学生の下校時間。それには出くわしたくない。  部屋を2周して、頭を壁に押しつけて、もう一度横になってみたけれど、どうしたってパンが食べたい。息を止めてもパンの匂いが鼻腔に抜ける。口いっぱいに広がるクリームパンがいい。  外に出るにはもう少しましな服に着替えなければならない。靴はあっただろうか。靴下も必要だ。穴が開いていたっていいけれど、派手なピンクのものしかない。靴を履いてしまえばいい。今こそダウンの出番だ。帽子をかぶって、マスクはないが、サングラスはある。  化粧用の小さな鏡しかなく、全身が映らない。めっきり老けたなと自嘲する。  ずっと使っていなかったお財布を開けたら1万円と小銭が入ったままになっていた。ぺりっという音が時間の経過を思わせる。札が変わっていなくてよかった。これで買える。キャッシュレスの時代だけれど、まさか現金お断りなんてところあったりするのかな。念のためクレジットカードも財布に入れる。あ、そろそろまた切り替えの時期だ。少し力を入れただけで合皮の財布が崩れるようにボロボロになった。手に汚いものが貼りつく。繊維とかテカテカしたもの。同時に使っていない大量のポイントカードが床に舞い落ちる。もう行かない店、潰れた店だってあるだろう。ゴミ箱には捨てられずに机にまとめる。 ウエットティッシュで手を拭う。現金とクレジットカードだけをポケットに突っ込んだ。  準備は万端。  行くしかないのだろうか。空気を吸ってもパン欲が目減りしない。  ドアの前で深呼吸。  ひきこもりをやめる人って親に説得されるとか、自分の中のもやもやが解決したとかそういう理由が過半数なのだろうか。  パンが食べたいだけでドアに手をかけている。
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