パンが食べたいだけで

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 商店街を駅に向かって歩く。閑散としていてよかった。アーケードに差し掛かる手前にパン屋がある。小さな店。パン屋なんてこんなものか。  もうパンの匂いが漂う。香ばしくて幸せな匂い。  店内に客がいないことを確認。自動ドアが開く。こんな私でもきちんと人として認識されているようだ。  時間的にも人が少ないだろうと思ってパン屋に来たら、並んでいるパンも少ない。 「いらっしゃい」  こんな店主だっただろうか。もっとおじさんだった気がする。代替わりしたのかな。  どうしよう。種類が少ないのに、トングを手にしてしまったから焦る。  甘いのもいいけれどカレーパンもいい。できれば、揚げたて。この時間は焼かないのかな。店主はレジに突っ立ったまま。  やっぱりクリームパンは外せない。迷う。トレーを手にしてうろうろ。  店主が見ている。あ、ドーナツもある。 「すいません。夕方まで店閉めるんですけど」 「あ、すいません」  どうしよう。決められない。  チンとレンジみたいな音がした。店主が奥に引っ込んだ。焼きたてあるのかな。ほら、ちょっといい匂いするもん。  そわそわ、わくわく。プレハブにいたらこういう気持ちの高揚みたいのすらなかったから自分で慣れない。懐かしい歌がラジオから流れてつい口ずさんでしまったときくらいだろうか。  店主がレジに戻って来た。なにも手にしていない。  あれれ? 「焼きたてのパンは?」  今日までひきこもっていた私でも言葉は発せられた。声はすごく小さかったと思う。それでも店主は、 「商品ではないのですが試食しますか?」  と言ってくれた。 「はい」  優しそうな人。面長で、意外に若そう。30歳くらいだろうか。 「クルミよもぎパンです」  雑に手でちぎる。ビニールの手袋をしてくれているから汚くはない。 「うまっ」 「焼きたてはね。でもすぐぱさぱさになって、売れないんだ」  と眉間に皺を寄せる。 「おいしいです」  パン欲が満たされるどころか、急激に幸せになっておかしくなりそう。全神経が味覚に集中する。口に入れたものの香りが鼻に抜ける。つながっているのだ。舌も喜んでいる。歯は私のものであっても私のものじゃない気がしていたけれど、咀嚼する役目をきちんと担ってくれる。 「こっちもどうぞ」 「いただきます」  数字の6のような形のパイっぽい甘いパン。 「どう?」 「おいしい」  それ以外の言葉が出ない。 「パン好きなの?」  店主が私の顔をのぞき込む。
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