パンが食べたいだけで

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「好き、というか、今日の今日までひきこもっていたので」  だから、もぐもぐしている自分の顔を見られることが恥ずかしい。 「ひきこもり?」  驚かれて当然だ。私だって自分がひきこもりになるなんて思わなかった。 「はい。4年です」  私は答えた。 「長いね」 「そうでしょうか。もっと長くひきこもっている人もいると思います」  一度あの沼にはまってしまうと自分に甘くなってなかなか出られなくなる。 「どうしてひきこもりになったの?」  彼が淡々と質問をしてくるから私も深く考えずに答えてしまう。 「就職先が辛くて。空気とか読めないんですよね。要領悪いし、人も嫌いだし。嫌な人が多すぎて」  あれ? あんなに嫌いだったのにもう先輩の顔もぼんやりだ。 「なんで今日、ひきこもりをやめたの?」  面白いと思ったのか店主さんが質問をやめない。 「パンが食べたくて」 「それだけ?」 「はい。でも帰ったらまたなるかも」  その可能性大だ。  促されてココナッツのパンを口に運ぶ。独特の触感。しゃりしゃりに比例して唾液が止まらん。  売れ残りのクリームパンとコーンパンを買うことにする。 「どうだった? うちのパン」  店主が心配そうな面持ちで尋ねる。気にしやすいタイプの人のようだ。 「おいしかったです」 「そう」  その表情から心底ほっとしたのが伝わった。 「270円です」 「はい」 「ちょうどいただきます」  レジにパート募集の貼り紙があった。『1日2時間より 時給相談』  働くことはむつかしいだろう。今だって、まだ外に出ていることに怯えている。空は好きなんだけどなぁ。空の下を歩くことも昔は嫌いじゃなかったはず。  いつからだろう。いろんなことが怖くなったのは。面倒になってしまったのは。諦めが早くなって、気落ちすることも減った。  ひとつずつパンをビニールに包んでくれる。もったいないからいいのに。レジ袋に入れて持ち手をくるくる。レジ袋代が必要になったことなどニュースでしか知らなかった私に、 「脱ひきこもり祝いにレジ袋はサービス」  と持ちやすいように渡してくれる。 「ありがとうございます」  私は言った。 「こちらこそ。また来る?」 「わかりません」 「明日からうちで働かない? うちには俺しかいないから。あ、俺も嫌な奴だけどね」  とにっと笑った。笑うと目尻が下がる。 「はい?」 「ね?」  私は返答をせずに店を出た。
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