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砂を握っていたのだ。あのとき、私は。どんなにぎゅっと握っていても、ぱっと手を離したら、ふっと吹く風にさらさらっと奪われる無意味な砂を、頑なに。
今、私の手にこびりついているのは小麦粉だ。発酵されて、ぷくっと美しい。焼いたらもっとおいしいことを知ってしまった。だから、ちぎって成形する。具を入れる、挟む、ねじる。
『チン』
とオーブンが鳴る。朝一番は食パンと決まっている。それを待っている人たちを横目にパンを並べる。立ち上る湯気がおいしいを伝える。
「今朝は風が強いからもう店開けよう」
とイサさんが言う。
「はい」
開店時間の7分前。ドアを開けると見慣れた顔もいる。ほっとしたように、
「おはよう」
と店内に足を踏み入れる。
「いらっしゃいませ」
毎朝発するその言葉によって、いい緊張感を保てている。
「今日は寒いね」
「そうですね」
私がパン屋で接客をしているなんて嘘みたい。結婚をしていることさえ未だに信じられない。
「いつもの食パンお願い」
「6枚切りですか?」
「今日は4枚にしちゃう。またフレンチトースト作ろうと思って」
「いいですね。イサさん、カットお願いします」
「はーい」
食パンを袋に詰めながら、他のパンの様子を窺う旦那様の背をぽうっと眺めてしまう。イサさんの見てくれはたぶん普通なのだろうけれど、私にとっては地上で一番優しくて大切な人。洗脳されてもいないのに男前に私の瞳には映っていますよ。がっちりしたその背中が大好きです。
「耳はそのままにしてね」
とお客様に声をかけられなければうっとり見とれてしまっていただろう。
「焼くとカリっとしておいしいですよね」
我に返って私は言った。
「そうそう」
年配の、白髪にニット帽のよく来てくれる人。顔は覚えたけれど名前までは知らない。適度な距離を取らないと、何かと厄介な世の中だ。
「お待たせしました。290円です。10円のお返しです。ありがとうございました」
こんなに素早く喋れる自分にびっくり。
ついこの間まで、私はひきこもりだった。孤独で、薄暗い部屋が私の全宇宙だった。
今は、明るい店内とおいしい匂いに包まれて、たまに旦那さんに見とれている。はっきり申しまして、幸せです。人から見れば笑顔なのでしょうけれど、これは単ににやけているだけです。
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