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焦燥
「……今頃は確か『家政』だったか。今日はどんな模様を縫っているのかな」
馬車に寄りかかるように立ちトントンと組んだ腕を指で叩きながら、アルベールは通う必要の無くなった学園の窓を見上げる。
チクチクと素早く手を動かして描かれる糸の柄はおおよそ絵画的とは言えず、実用的に『布を丈夫にする』という目的に特化した物だと、彼の想い人は懐かしそうに語った。
それはこの世に生を授けてくれる前の『母』からの──
「でも、あの図はとても……綺麗だ」
普通の刺繍であれば下絵も無しに感覚と記憶で縫い取るが、彼女はわざわざ模様を描いていた。
周囲の者はそれを下賤だ、行儀が悪いなどと聞こえよがしに囁いていたが、彼女はそんな雑音を気にすることなく丁寧に線を引いていた。
菱形に十字をちりばめているのに、それは植物でも動物でも紋章でもない。
でも整然としていて、単純な繰り返しなのに複雑にも見える──そしてその線の通りに彼女は手早く縫い上げ、次の布に取り掛かっていた。
装飾的な刺繍をゆっくり縫う令嬢たちは自分が何のために家政の授業を受けているのかを理解していないようだと、彼女から少しだけ離れて護衛していたアルベールはチラリと眼球だけを動かしてすぐ対象者に気持ちを戻したが、もうそれも無用だと今はこうして離れた場所にいるしかない。
「綺麗だ……シー……」
ハッとして口を覆い、呟きが誰かに聞かれなかったかと慌てて周囲を見回したが、幸いなことに御者は馬の世話に忙しく、アルベールが所在なげに立っているのに構っている暇はなさそうだった。
公爵家と子爵家──これがすでに後継ぎとなる子供がすでに成人していて後妻を迎えるのに支障がないとか、親子以上に歳が離れているためにすでに養子を迎えているだとか、王都から離れた辺境で嫁取りが難しいとか、『身分違い』が些細な問題になってしまうようなふたりならば、こんなに悩んだりはしなかった。
だが自分自身を父や祖父と同年と考え、今まさに春の盛りを迎えている少女と婚姻を結ぶ──想像だけでも気色が悪い。
どちらも若い頃から剣を嗜んだり、領地に帰れば好きなだけ馬を駆っていくほど鍛えているため、年齢の割には頑健さとスタイルの良さを維持している。
おかげで夜会に出れば積極的なご夫人が母の目を盗んで近付いてこようとするのだ。
それは──自分にも向けられる。
自分が父と同じ年齢ではなく、むしろご婦人方が母と同じかそれ以上の年齢であるのに、『オンナ』を匂わせて擦り寄ってくるのは気持ちが悪い。
「……どちらにしても、無い…な」
やはり年齢だとか置かれた状況だとかで解決できる問題ではないのだ。
この学園を覆う壁以上の厚さに、高さに、そしてその内側に共にいる釣り合いの取れる少年の多さに、アルベールの焦りは募る。
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