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先生とこういう関係になったのは、今年春、僕がこの大学に入学した時だった。
お世話になった先輩に入学の挨拶をしていたら、たまたま週末で先輩のゼミの飲み会の日だった。何気なく誘われたその席で、めずらしく強かに酔ってしまった先生を家まで送ることになったのだ。というのも、未成年者は僕だけで、あとはみんなそれなりに酔っていたからだ。僕を誘った先輩もその時はかなり飲んでいて、意識ははっきりしていたものの足元が覚束ず、僕はタクシーで先生を送る役を頼まれた。
本当ならアルファの先生とオメガの僕が二人きりでタクシーに乗るなんてしてはいけない行為だけれども、この時そんな事に気が回るほど理性を保っている人はおらず、唯一素面の僕はそれほど危機感を持っていなかった。
だって運転手さんがいるし。
それに最初は先生を家の近くで下ろすだけでよかったはずなのだ。だけど先生はタクシーで寝てしまい、結局部屋まで運ぶことになった。
酔っていても聞けばちゃんと答えてくれたので、無事にマンションまでたどり着いたものの、エントランスでインターフォンを鳴らすも誰も出ず、僕は先生から鍵の場所を聞いて取りだし、部屋まで行った。一応、そこでもインターフォンを鳴らすも当然出ず、また鍵を使ってドアを開けたのだけど、中はかなり散らかっていて驚いた。
確か結婚してるはずなのに・・・。
初めての講義で先生は既婚者だと言っていたし、左手の薬指には指輪もはまっている。だけど、この部屋の散らかり様は少し留守にしています、なんてものじゃない。もう何日も奥さんが居ないことを示していた。
疑問に思いながらもとりあえずリビングのソファまで運び、どうしようかと思いながら冷蔵庫から勝手に水を出して先生に持って行った。
まだ酩酊状態の先生はそれでも僕から水を受け取り、何口か飲むとようやく意識を取り戻してきた。
そのとき、僕は直ぐに帰ればよかったんだ。いくら酔っているとはいえ、アルファと二人きりなんて何が起こるか分からない。だけど、なんだかまだぼうっとしている先生が心配で、僕はそのまま先生の隣に座ってしまった。すると先生はなんの前置きもなく、奥さんのことを話し始めた。
ソファの背に持たれて両手でペットボトルの水を持ち、ぼうっと前を見ながら淡々と話す姿が、儚くて、消えてしまいそうだった。
感情も抑揚もなく、けれどそんな風に話すにはその内容が重すぎて、僕は思わず隣を見た。すると先生はどこを見ているのか焦点の合わない目から涙を流していた。
先生は静かに泣いていた。
先生の奥さんは、不調を訴えて訪れた病院で病が発覚したのだ。それは決して軽いものではなく、そのまま入院した奥さんはみるみる病状が悪化し、いまはベッドから下りることも出来ず寝たきりになっている。
回復の見込みは五分五分なのだそうだ。
本人の基礎体力と薬の選択。いくつかある薬の中で、本人に合うものを探すのが難しいらしい。それをいま試しているところなのだそうだ。けれど、体力の低下と病気の進行は避けられない。いかに早く薬を見つけるかが鍵になるのだという。
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