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大浄化戦争が世界にもたらした荒廃のきっかけになった返死人問題は、人類の不屈の精神と善意が終点まで転がり続けた結果だと皮肉られることがある。
世界中に蔓延した新型感染症を封じ込めるために急造された生ワクチンが人体内で突如、活性化して変異を続けた結果、人間を死に至らしめた後、人肉を喰らう動く死者。その呪いを傷を負わせた者にも与える使徒として蘇らせたのだ。当初、蘇った死者たちは人類にそう認識されていた。もちろん、それは当たらずとも遠からずだけど、返死人になって初めてわかることもある。
わたしたちは自己完結した存在だ。
身体に宿った力は腐敗菌を含めて、あらゆる細菌を寄せつけないから人間として死んだときのままだし、消化器系も動いていないから、なにかを食べなければならない必要すらない。だから、そっとしておく限り人間にとって返死人の存在自体、とても無害なものなのだ。
ただし、あるきっかけがない限り……。
怒り
人間が怒りの感情で食欲を増進させるのと同じかどうかはわからないけど、返死人は怒りに駆られると抑えがたい飢えの衝動に苛まれてしまう。それがわかっているからこそ心の平安を保つのに、まるで修行僧のように月明かりの下を歩き回って思索に耽ったり、わたしのように動物や自然を愛でたりする存在も数多い。なのに、人間はわたしたちを過剰なまでに攻撃した。世界中にいた数十万の仲間たちを、まだ少数のうちにと残酷に排除しはじめた。
ただ人間は自分たち自身をよくわかっていなかった。
返死人排除を口実に自国の権益を伸ばそうとする輩のいることを。混乱に乗じて世界に覇権を唱えようとする者に鉄槌を下すことが正義だと信じて疑わない性があることを。こうして世界中はいがみ合い、大規模化していった国際紛争は人間とわたしたちを巻き込んで、より大きな世界戦争へと拡大し続け、ついに既存の文明を破壊したのだ。
*
「小僧」女リーダーは彼を銃床で突き倒した。「お前は、この返死人とどんな関係だ」
あの女め。なにもしてない彼に暴力をふるうなんてあんまりだ。
「彼女は……彼女は、ぼくを助けてくれたんだ……」
「奴らが、そんなことするか」
「でも」と、リーダーの怒声に眼鏡の男が顔を向ける。「彼は喰われもせずに生きてる」
「事実は、お前の操作ミスが人間を攻撃したってことさ。この女は人間だった」
「それはあり得ない。自律型多脚兵器の起動は完璧だった」
「まぁいい。どのみち人間と奴らの見分けはつかないんだ。返死人なら、完全に止めを刺さなけれ……」
倒れたわたしの頭に銃口を向けた女リーダーの首が、お喋りの途中でゴロリと地面に転がった。
映画の腐死人や不死人のように返死人は愚鈍でも、緩慢にしか動けないだけの存在ではない。むしろその逆で、わたしのように二、三の感覚を失っただけの五体が揃っている者は大型の捕食獣並みの力とスピード、それに知力を兼ね備えている。
怒りに我れを忘れたわたしは残りの三人が反撃に移る隙を与えることなく素早く斃しさると、その死肉にむしゃぶりついた。
早く喰らって怒りの衝動を鎮めねば、今まで愛(め)でてきた彼も襲ってしまうことになる。
辛うじて理性の欠片が働いているうちに、早く、早く。だって、わたしは、か弱い彼を守ると誓ったんだから……。
でも、さっき受けた攻撃で、大きく裂けた胃袋からは斃した人間たちの死肉が次々と体外にこぼれ落ちて、いっこうに飢えの衝動が治まらない。普段なら怒らせた相手の身体を六分の一も喰らえば衝動が治まるのに、なんてことなの。
その焦りが言葉を失ったわたしの口に声を思い出させた。動くことがなくなって久しい肺と声帯から絞り出された音は、人間には亡者の呻き声にしか聞こえなかっただろう。
彼の愛らしい目が恐怖に大きく見開かれ、震える手が女リーダーの小銃を拾い上げて、わたしに向けられた。
駄目よ。絶対に駄目。
早く、その武器を下ろして。
一所懸命に喰らうから、早くそれを捨ててちょうだい。
これ以上、怒りの炎に油を注がないで、飢えの衝動は、まだわたしの中に燻っているのよ……。
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