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「ただいまー」
『おかえり』
仕事から帰った丹内を、リビングで迎える。
見えるはずない僕の方を見て、丹内がふっと寂しげに笑った。
冷蔵庫から、ミネラルウォーターを取り出し、丹内はごくごくと飲む。
『仕事、忙しい?』
「まあね。月末だから仕方ない」
ここで、晩ご飯を作ることができれば、丹内の役に立つのだが。
残念ながら、自分は、ここにある物体に触れることはできない。
存在するのに、干渉することはできない。
まるで、以前、テレビの宇宙特集番組で見た、ダークマターのようだ。そこここに満ちているはずなのに、見ることも観測することもできない。
キッチンのオープンカウンターに置いてある僕の写真に、丹内は小さな花束をコップに生けた。
ああ、そうか。今日は――僕の、命日。
丹内は、ベランダに出る。
秋のひんやりと湿った風が、栗色の髪を揺らす。
あの時、最初で最後、丹内を抱きしめた時、止められず、その髪に顔を埋めてしまった。丹内の匂いを吸い込んで、掻き抱いて。そのまま、本当は抱いてしまいたかった。
「なあ、鷹取が本当に俺を迎えに来るまで、ここで一緒に暮らさないか」
丹内が、言った。決意のように。
『まるで、プロポーズみたいだな』
うれしくて、ほんの少し、哀しい。
手の届かない憧憬のような言葉に僕が笑うと、丹内はゆっくりとこちらを見た。
真っすぐの瞳が、僕を射る。
『丹内、もしかして、僕が、見えてる…?』
その問いには、答えず。
やせた頬に、一筋の涙が流れた。指で拭ってやると、丹内は目を閉じた。
触れられないはずの、涙の、温かく濡れた感触。
僕は、その細い体を、抱きしめた。
(おしまい)
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