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7:汚れた天使と悪魔の後悔
幼い子どものように泣きじゃくる声に耐えられなくて、僕は外に出た。
後ろ手に扉を閉めても、くぐもった声は遮断できない。
いっそ耳を塞いでしまいたくて、でもそんな資格なんて僕にはないと分かっていた。
汚してしまった。
真っ白だった彼の心に、
醜い現実を突きつけて、
傷付けて、
泣かせた。
昨日までの神崎理人は、もうどこにもいない。
変えてしまったのだ。
僕が、この手で。
「西園寺……?」
ハッと振り返ると、木瀬先輩の驚いた顔がそこにあった。
いつの間にか、泣き声が聞こえなくなっている。
「待ってたのか、律儀だな。部屋に戻っててよかったのに」
「あ、あの、神崎、は……」
「泣き疲れて寝た」
「泣き、疲れて……」
ほう……と息を吐く木瀬先輩のグレーのスウェットには、世界地図を描いたような大きな黒いシミが広がっていた。
それは、神崎が流した涙の跡。
僕は、バカだ。
きっと傷は浅い――どうして、そんな仮説を立ててしまったんだろう。
「ちょっとあいつらの様子見に行ってくる」
「えっ……あ」
あいつら――あ、神崎のルームメイト。
桜木先輩は『任せろ』と言っていたし、たとえ相手が大勢だったとしても、彼ならあんなクズたちに言い負かされることはないだろう。
「西園寺、俺が戻るまで代わりに神崎くんの側に……」
「あいつら、どうなるんですか」
「え? うーん……」
「カンニングと寮内不純同性行為強制未遂の現行犯で、二週間の停学ってとこかな」
「桜木……!」
背後から会話に割り込んだのは、桜木先輩だった。
「たぶん、自主退学するだろうけどね」
「えっ」
「どいつもこいつも親が金積んで入学しただけの虫ケラどもだから、停学なんて汚点、家が許さないさ」
背筋が凍った。
桜木先輩の口調は穏やかで、向けられていた表情も、〝女神〟の異名にふさわしい淡い微笑。
でもやっぱり、目が全然笑っていない。
「おい、桜木」
木瀬先輩の強めの呼びかけに、桜木先輩はハッとしたように肩を揺らした。
「ああ、ごめんごめん」
「……」
「西園寺くん、神崎くんにはもう安心してって伝えといて」
「は、はい」
「それから、『ごめんね』って」
「えっ……?」
先生に報告してくるね、と言い残し、桜木先輩は寮の宿直室へと向かった。
遠ざかる細長いシルエットを見送るしかない僕の隣で、相変わらずだな……と、木瀬先輩が呟く。
続いたため息には、明らかな安堵が含まれているのを感じる。
桜木先輩には絶対に逆らわないようにしよう――僕は、こっそり誓った。
**
木瀬先輩に続いて、そっと部屋に足を踏み入れた。
ベッドに横たわって眠る神崎の顔は青白いけれど、呼吸はすっかり元のリズムに戻っている。
頬に残った涙の軌跡を辿るように、木瀬先輩の四角い指先が、神崎の肌をそうっ……とたどった。
その動きがあまりに優しくて、胸の奥がきゅう……っと締め付けられる。
「どうすっかな……今夜はこのままここで寝かせるか」
「……木瀬先輩」
「ん?」
「なんで、何も言わないんですか」
頭の回転の速い木瀬先輩のことだ。
きっと、すぐに分かったはずだ。
神崎の身になにが起こっているのか理解しながら、僕がわざと彼を放置していたことを。
――西園寺くんたすけて……!
「……なんでだよ」
「……」
「なんで、僕に助けを求めたんだよ……」
神崎は、僕の隣に木瀬先輩がいたことに気付いていたはずだ。
それなのに、彼は僕を呼んだ。
どうして。
どうして、よりによって僕なんかを――
「お前、分かってねえのな」
木瀬先輩が、至極ゆっくりと言った。
呆れたような声音の奥で静かな怒りが渦巻いているのを感じ、思わず全身が揺れる。
穏やかな寝息を立てる神崎の頬にもう一度手のひらを当ててから、先輩は真っ直ぐな視線で僕を射貫いた。
「神崎がお前を頼るのは当然だろ。バディなんだから」
「だ、だからって……!」
「バディってのは、単なる専属家庭教師でも、ノートをコピーさせてくれるやつでもない。友人として、ライバルとして、切磋琢磨しながら一緒に成長し、成長させられる相手。それがバディなんだよ」
「……」
「そんなことも知らないまま大成の生徒やってたのか?」
「……」
「しっかりしろよ。なんでこいつがお前のバディなのか、ちゃんと考えろ」
語尾を乱暴に吐き捨てて、木瀬先輩は僕を部屋から追い出した。
ちょうど神崎の目が覚めたんだろう。
閉じた扉の向こうから、内容の分からないくぐもった話し声が聞こえてくえる。
うっかり神崎と鉢合わせしたくなくて、僕は慌てて足を動かした。
自室への道のりをゆっくりと踏みしめながら、木瀬先輩の言葉を反芻する。
――友人として、ライバルとして、切磋琢磨しながら一緒に成長し、成長させられる相手。それがバディなんだよ。
そんなこと……
――知らないまま大成の生徒やってたのか?
だって、中学時代のバディは僕の家柄と成績にしか興味がなかった。
一緒に成長したことなんてなかった。
与えるのはいつだって僕で、
ただ、
それだけで……。
だから、神崎とバディになった時も、僕は〝与える立場〟から〝与えられる立場〟になっただけだと思っていた。
それなら、〝与える〟方がまだマシだ――とも。
でも、そうじゃない……ということなんだろうか。
――なんでこいつがお前のバディなのか、ちゃんと考えろ。
なぜ僕のバディが神崎理人なのか?
そんなの、考えたって、
「わかるわけ……ない」
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