151人が本棚に入れています
本棚に追加
プロローグ
ーー夢を見た。
初めて赴任した、福岡の海…
婚約指輪を買いに行くと言って連れ出した君と共に、立ち寄った小さな海辺の喫茶店で、手切金渡して、ただ一言、婚約解消して別れて欲しいと告げた…九州にしては珍しく雪のちらついた、冬の朝。
どうしてと問う君に、ワシは何も言えず、ただ何度も、頭を下げて、別れて欲しいと言い続ける事一時間半。
泣きじゃくりながらも頷いてくれた時は、心底ホッとして、赤い目をして俯く君を助手席に乗せて、家へと送り届けた。
可愛い一人娘やったから、相手の親にも散々怒鳴られ罵られたが、全て甘んじて受け入れて、二度と敷居を跨ぐなと言う念書も書いた。
君は部下やったし、職場にも言うてもうてたから、段々居り辛うなって、せやけど、結婚するくらいならと耐えて耐えて、半年後…仙台行きの辞令を受けた時は、一人静かに、安堵の涙を流した。
それから、人を愛する事、愛される事から目を背け、逃げ続け、地方都市を転々とすること10年。
生まれ育った京都に根を下ろして5年目の冬やった。
泣かせた君と同じ、真っ白な肌をした彼女に、巡り会うたのは…
*
「寝不足?なんか、目が赤いよ。」
「そうか?まあ、こう暑いと寝苦しゅうてかなんからなぁ…エアコン、取り付け面倒やから買わんといたけど、お前もおるし、ええ機会やから買おうかのぅ…」
…京都の夏はとにかく暑い。
藤次と真嗣の住む京都市は、京都盆地(山城盆地)に位置しており、気候としては瀬戸内海式気候と内陸性気候を併せ持っており、降水量が比較的少なく、夏と冬、昼と夜で寒暖の差が激しい地域である。
狭い路地の片隅にある、築半世紀の長屋に真嗣がやってきて最初の夏。
朝食のだし巻き卵をつつきながらそんな会話をしていると、真嗣のスマホが忙しなく鳴る。
「はい。谷原です。あ!これは、大先生。おはよう御座います。…はい。…はい。分かりました。僕の方でクライアントに変更できないか、相談してみます。はい。」
「朝から仕事の電話かぁ。商売繁盛やのぅ。」
「まあね。最近ようやく、新しい事務所にも慣れてきたし…」
「ほぅかほぅか。そりゃ結構。」
大きく頷きながら茶碗の白米を掻っ込むと、藤次は居間の壁掛け時計を見て立ち上がる。
「まあ、あんじょう気張りや。ぎょうさん稼いで、こない古びた長屋街やのうて、下鴨や北山…せや、東山辺りに部屋借りてくれや。」
「しがない雇われマチベンに、そんな大層な期待するなよ公務員。」
「あかんあかん。志は高う持たな、一端のセンセにはなれへんで?ほな、ワシ、もう行くで?」
「うん。僕もこれ片付けたら出るよ。夕飯は?」
「いらん。外で食って来るわ。遅なるさかい、先寝とけや。」
「分かった。気をつけて。」
「ん。」
そこそこ小洒落た夏物の上着とカバンを小脇に抱え、そこそこ上等な革靴を引っ掛けて、忙しなく玄関を後にする藤次が、どこか浮かれて見えるのは気のせいかと思いながら食卓を片付けていると、ふと目に入ったカレンダーの赤丸。
「そうか…今日、面会日か。」
なるほどなるほどと頷き、真嗣はクスリと微笑んだ。
最初のコメントを投稿しよう!