最終話

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最終話

「…ん……」 重い瞼を開け、藤次は目覚める。 カーテンの隙間からは穏やかな陽射しが溢れ、路地で遊んでいるのか、どこからともなく無邪気な子供の声が聞こえた。 時計をみると、既に昼の12時近くを指しており、久しぶりにこんなにゆっくり眠れたなと、改めて絢音の存在の大きさに胸をときめかせ、そっとベッドから起き上がり、服を着て、きっと昼食の準備をしてくれてるであろう彼女の姿を見ようと、階下に降りた。 「あれ?」 しかし、階下の居間にも、台所にも、絢音の姿はなかった。 買い物かと首を傾げたが、ちゃぶ台に置かれたあるものを目にした瞬間、藤次は顔を歪める。 「なっ……」 あったのは、夫の欄が未記入の離婚届と、外された9号サイズの結婚指輪と、大切に箱に仕舞われていた婚約指輪。 更に、藤太と恋雪名義の貯金通帳と印鑑とスマホ。そして、「棗藤次様」と表に書かれた、分厚い封書。 縋る思いでそれを開けると、確かに絢音の字で、こう綴られていた。 −初めて贈る手紙が、さよならの手紙でごめんなさい。 でも、書かないと、心の整理がつかないから、今こうして、筆をとってます。読んでも読まなくても良い。ただ、すぐ捨ててね。お願い。− 「さ、さよならて…なんで…裁判もなんもかんも終わって、またこれから言う時やろ…」 言って、2枚目の便箋を捲る。 −この数ヶ月、本当にありがとう。私の油断で、藤太と恋雪を殺した挙句、私は、裁判に臨むあなたを支えようともせず、辛い現実から逃げるように、精神を閉ざして、あなたに父親の真似までさせて、甘えて、最期の最期まで、あなたの優しさを求めてしまいました。本当に、本当に、ごめんなさい。− 「な、なにを謝るんや。愛してんやから、当たり前やろ…なあ…」 問いかけながら、3枚目をめくる。 −もうこれ以上、あなたの優しさに甘えることも、求めることも、ましてや、側にいることなんて、きっと…藤太も恋雪も、ゆるしてくれないでしょう。自分達から父親を奪ってのうのうと生き延びた女が、どのツラ下げて…ママよって、墓前に言えるでしょうか。少なくとも、もう私は、2人に顔向けできません。勝手をいいますが、納骨や供養…お願いね。費用は、今まで貯めてきた、あなたのくれた生活費やお小遣いの残りで積み立てたこの通帳から、使って下さい。それが、唯一2人にできる、私の母親らしい、償いです− 「なにを、馬鹿なこと…お前のこと、あんなに慕ってた2人が、そないなこと言うはずないやろ。」 そうして、最期の一枚を捲る。 −今まで本当にありがとう。数えきれない愛と思い出を、こんな私に与えてくれて、私に、家族をくれて、本当にありがとう。 でも、最期に一つ、謝らせて。 私、昨晩あなたに一つ、嘘をつきました。− 「嘘?」 瞬きながら読み進めると、だんだんついてきた涙の跡らしき滲みで文章が読みづらくなってきたが、構わず目を走らせる。 −昨晩、あなたに精力剤よと言わせて、口移しで飲ませた錠剤…あれ、そんなんじゃないの。 不眠だった頃に処方されてた、長時間…最低でもこの手紙を読んでる時間まで眠れる、睡眠薬。 ごめんね。嘘ついて飲ませて。 でも、あなたと朝を迎えて、あなたのためにご飯作って一緒に食べてたら、アタシきっと、さよならなんて言えなくなる。 ずっと側にいたいって、願ってしまう。 愛していたいって、愛されたいって、思っちゃう。 だから黙って…こうして手紙で別れを告げる臆病なアタシを、どうか許してね。 ホント、最期の最期まで、あなたに甘えてばかり…いやんなっちゃう。− 「絢音…」 −私にできるお礼なんてたかがしれてるけど、あなたが今まで好きやって言ってくれたおかず、冷蔵庫にいっぱい詰めたから、それ食べて、いつまでも元気で、笑って、冷蔵庫が空になる頃には、私のことなんて忘れて、美人で巨乳の…料理上手な若い奥さん見つけて、幸せになってね。私はいつまでも、あなたの幸せだけを、遠く空の下で、願ってます。最期に、本当にありがとう。そして、さよなら… 笠原絢音− 「あんの…バカ!!」 叫び、着の身着のままで家を飛び出し、花藤病院、八百屋、豆腐屋、花屋、北山の元自宅、楢山家、真嗣のマンション。佐保子や夏子の自宅。度会家、伏見の隠れ家バーなど、思いつく限りの場所を当たったが、誰もが来てない、知らないと言うので、結局…夜の帳が下り始めた夕刻、帰宅の途に着いた。 「他に、あいつの行きそうなところ、どこや。広島の親族は絶縁状態や言うてたし、姉ちゃんとこなら、連絡きてもおかしないはず。新婚旅行で行った道後か?それとも…」 とりあえず、今から捜索願を松下に出そうと心に決めた時だった。 電話の脇のメモ帳に、なにやら乱雑に破られた痕跡が見えたのは… 「まさか…」 縋る思いで、鉛筆で白紙のメモ帳を擦り、筆圧で窪んだ文字の跡を浮かび上がらせる。 すると… 「と、東京地検特捜部検察事務官、山際直人?」 聞いたこともない人物の名前に首を傾げる。が、ややまって、藤次は賢太郎に電話する。 「あ!楢山か?ワシや。絢音の事でなんか手がかりみつけてん。そんでな、お前の親父…退官後も特捜部のこと、詳しいんか?もしそうやったら、山際直人って事務官について、聞きたいことあんねんけど…」 そう言って、折り返すと言った賢太郎の言葉を聞いて電話を切り、彼女の行方の手がかりになってくれと祈っていると、再び、賢太郎から電話がくる。 「も、もしもし?」 そうして、賢太郎が父親から聞いた、山際直人についての情報を聞いた瞬間、藤次は目を丸くする。 「えっ……そんな…その話、ホンマなんか…?」 嘘偽りはないと言った賢太郎との電話を切り呆然としてると、不意に藤次は、絢音が大切にしていたあるものを見つけようと、茶箪笥から文箱を取り出し中を漁る。 「…ない。ごっそり抜いとる。それにあれも…なら、間違いないな。」 呟くと、藤次は押入れから大ぶりのトランクを取り出すと、衣類やちゃぶ台のものを詰めてタクシーを呼び、すぐさま京都駅から、ある場所へ向かった。 東の都…首都東京へ。
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