149人が本棚に入れています
本棚に追加
「…以上の理由により、検察としては被告人に懲役5年を求刑致します。」
月日は流れ、3ヶ月。夏の日差しが眩しくなってきた、京都地方裁判所321号法廷。
いつものように求刑を告げる藤次だが、不意にスマホが鳴動したので、弁護士の最終弁論もそこそこに、画面を見やる。
「(絢音?なんやろ?)」
普段仕事中にメールや電話をしてこない彼女にしては珍しいと思いながら、届いたメールを開封してみる。
-ごめん。ちょっと気分不安定だから、ご飯…任せていい?-
「(今日は、もうこれで裁判終わりやし…明日に回しても問題なさそうな仕事ばあやし、久しぶりに、定時で上がってみるか?)」
手帳を眺めて思案した後、藤次はメールに返信する。
-分かった。仕事早よ終わりそうやから、お前の好きなもん、ぎょうさん買うてきたる。-
「(季節の変わり目やから、精神的に不安定なんは仕方ないねんな。薬も大分減っとるみたいやし、最近帰宅してもよう寝とるし…少しは家事、手伝わんとな。)」
そう心に決めて、藤次はスマホをポケットに終い、再び公判に集中した。
*
「………なんだろ。気持ち悪い…」
藤次からのメールに返事して、絢音は扇風機の風下に身体を横たえ肩で息をする。
「暑気あたりかな?それとも、何か変なもの…食べたかな?」
ふと、ちゃぶ台に置かれた基礎体温表を見る。
「体温も、ずっと高温期で、熱っぽい…夏風邪?」
そうしてぐったりしていると、炊飯器の炊き上がる音がしたので、少しでも何か胃に入れようと、蓋を開けた瞬間だった。
「っ!!」
立ち込めた湯気を嗅いだ瞬間、言い知れぬ不快感に見舞われ、思わずシンクで嘔吐する。
「ダメだ…気持ち…悪い…」
ズルズルとその場にへたり込み、絢音は意識を手放した。
…遠くで、波の音がする。
懐かしい…藤次さんと行った、瀬戸の海…
目を開くと、小さな島があって、木陰に赤ん坊を抱えた女性と、側に佇む…藤次…さん?
「名前…決めてくれた?」
…女性の問いに、藤次さんに似た男性が囁く。
「「絢」に「音」で、絢音。「常に自分を磨く」「誠実でいつも綺麗な心をもつ」意味を込めて、考えてみた。」
…お父さんと、お母さん?
「「素を以て絢と為す」…論語ね。あなたらしい…」
「いやかい?」
「ううん。素敵…絢音…可愛い私達の、娘…これから沢山、幸せになってね…」
…お父さん!お母さん!
走って、島に行こうとした瞬間だった。
ザアッと風が吹き、波飛沫が視界を遮る。
-…絢音…-
誰かに名前を呼ばれ、振り返る。
そこにいたのは…
「…やね!!おい!しっかりせぇ!!!」
「と、うじ、さん?」
重い瞼を開け、泡沫の世界から帰還すると、目の前にあったのは、心配そうに自分を見つめる藤次の顔と、暖かい腕(かいな)。
「あぁ、良かった。気ぃついて。もうちょいしたら救急車呼ぼう思うとったから。」
「ごめんなさい…なんだか、酷く気分悪くて、お昼から何も食べてないの。熱っぽいし、風邪かな?」
「あかんやん。おばんざいぎょうさん買うてきたから、少しでも食べて薬飲んで、早よ休み?衣替えやらなんやら、頑張りすぎて疲れ出たんやろ。立てるか?」
「うん………っ!!」
急にまた吐き気をもよおし、シンクに嘔吐する。
胃は空っぽなのに、ムカムカして気持ち悪くて、吐き続ける絢音の背中をさすってやりながら、藤次はふと…これは悪阻ではないかと思いを巡らせる。
「(微熱が続くと、ちょっと疑ってみたらいいんじゃない?風邪の熱とは違って、火照るっていうの?熱いみたいな)」
「(あとは身体の怠さや、過眠だな。ウチのはとにかくよく寝てたな。)」
「絢音…変な事聞くけどお前、最後に生理きたん、いつや?」
「……そう言えば、もう2週間くらい、遅れてるような…」
その言葉に、藤次は絢音を居間へ座らせると、財布を持って玄関に向かう。
「どこ行くの?!」
「薬局!すぐ帰ってくるさかい、大人しくしとき!!」
言って、スーツにつっかけという出立ちで、藤次は近所のドラッグストアに駆け込み、品出しをしていた店員に詰め寄る。
「すんません!!あれ、どこにありますか?!」
「あれて…なんでしょうか?」
藤次の迫力に気圧され戸惑う男性店員に、藤次は息を整え口を開く。
「あれです!妊娠検査薬!!」
*
カナカナと蜩が鳴く窓辺から溢れる夕焼けの下、仰向けになりぐったりしていると、引き戸を開ける音がして、藤次が帰って来たので、絢音は半身を起こす。
「わざわざ買いに行って…置き薬…あったのに…」
「そんなことより、これ!早よ使ってみ!」
「なに?」
渡された紙袋を開けて、絢音は瞬く。
「なにこれ。妊娠検査薬?」
「勘やけど、妊娠…したんちゃうか?」
「ただの風邪よ。ご飯にしましょ?お薬飲みたいし…」
「あかん!もし妊娠やったら、軽々しゅう薬飲んだらあかんやん!なあ、騙された思って…頼むわ…」
「…分かった……じゃあ、トイレ行って来る。」
腑に落ちない気持ちだったが、藤次の真剣さに気圧され、絢音は検査薬を持ってトイレに向かう。
残された藤次は、検査薬の箱に入ってた説明書を取り出し目を走らせる。
「これは、陽性やったら検査窓に二重線が入るんやな。二重線…二重線…」
ほんの数分のはずなのに、酷く長い時間に感じて、ただひたすら、絢音がトイレから出て来るのを待っていると、ゆっくりと扉が開き、絢音が現れる。
「出たわよ結果。なんか…検査窓に二重線が入ってるけど、なに?」
…二重線…
陽性…
「………ワシ、明日休み取るわ。」
「えっ?!」
「半日…いや、全休…楢山と柏木に無理くり仕事代わってもらって…ああせや!部長にまず連絡…」
覚束ない手つきでスマホをポケットから出してボタンをタップしようにも、手が震えて、嬉しさが込み上げてきて、スマホを放り投げて、呆然としている絢音を抱き締める。
「藤次さん…結果、教えて?なに?」
「分かれや阿保…旦那が、仕事休む言うてんやで?結果なんて、決まってんやろ…」
ボロボロと涙を流しながら、戸惑う彼女を眼前に置いて、嗚咽を殺して囁く。
「陽性…おめでたや…」
*
「はい。ほんならお腹出して、仰向けで寝てください。」
「はい。」
看護師に促され、絢音は診察台に登る。
翌日の朝一番、2人は花藤病院の産婦人科にいた。
部長の葵と、楢山と柏木の好意により、1日休みをもらった藤次は、待合室で名前を呼ばれるのを今か今かと待ち侘びていた。
「検査薬は陽性やったし、真嗣等が言ってた初期症状も当てはまるし…大丈夫…大丈夫…」
雑誌でも見て落ち着こう。そう思い、震える脚で立ち上がり、新聞を手に取った時だった。
「棗さん。ご主人さん。どうぞ?」
「!」
弾かれたように背筋が伸びて、看護師に促されるままに診察室に入ると、ふくよかな体格の…担当医の中山と、涙目の絢音。
「藤次さん…」
「絢音…先生、内方は…?」
問う藤次に、中山は一枚の白黒の写真を示す。
「今、7周目です。心音も確認できましたし、おめでとうございます。」
「ほ、ほんならこれが…ワシ等の、赤ん坊……?」
バタバタと涙が溢れてきて、写真を濡らす。見かねた中山がティッシュを差し出してきたので、それを取り涙を抑えながら、絢音の隣に座り、はにかむ彼女に笑ってみせる。
「みてみい。ワシの勘、当たったやろ?」
「うん…」
「とりあえず、心音確認できましたけど、安定期に入るまでは、流産にはくれぐれも気をつけて行きましょう。あと、少しケトン体が出てますから、食べれるもの食べて栄養つけて下さい。酷くなるようなら、点滴と言う手段もありますが、とりあえず、赤ちゃんの為に頑張って食べてみましょう。」
「はい…」
「ん。では、後は京橋先生と、お薬相談して帰って下さい。結構ですよ。」
「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします。」
言って、絢音は席を立ったが、藤次は膝が震えて、中々立ち上がれない。
「す、すんません…ワシ…感極まってもうて…ワシ…」
出来損ないと、生まれてこなければ良かったと言われ続けてきた自分が、親になる。
それも、世界中で一番愛してきた女の腹から、産まれてくる。
この小さな命を、何が何でも、守ってやりたい。
育んでくれる絢音を、もっと大切にしたい。
その為なら、どんな罪を犯しても厭わない。
言いようのない感情が溢れてきて、場所を忘れて声を上げて泣き崩れると、絢音がそっと藤次の頭を下腹部に添える。
「ここに、いるのよ?そんな泣き虫なとこ、見せていいの?お父さん?」
「そんな事、言うて…お前は、嬉しないんかい…」
「嬉しいわ。でも、もうお母さんだもん。メソメソしてらんない…」
「なんやねん。いっつもベソかいて、散々困らせとったクセに…せやから女は、ようわからんねや。」
言って、藤次は優しく微笑む絢音を見上げて、嗚咽を抑えて呟いた。
「ありがとう…ワシ、最高に、幸せや。」
「うん。私も、最高に幸せよ?藤次さん…」
最初のコメントを投稿しよう!