第8話

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5月…いよいよ絢音の出産予定日が4日と迫ってきた。 病院のベッドで、いつか瀬戸の海で拾った指輪を右手に嵌めて、絢音は新緑眩しい窓の外に目を向ける。 これから、想像も絶する痛みを迎えて、十月十日育んできた1つの命を産み出す。 果たして、乗り越えられるのか。 無事にこの子を、産んであげられるのか。 そんな考えを巡らせていたら、ろくに眠れない夜を過ごしてきたせいか、なんだか眠たくなって来たので横になった瞬間だった… 「あ……」 ツウッと、何かが下に降りて来る感覚が走り、下半身がみるみる体液で濡れて冷たくなる。 どうしたものかと狼狽していると、花を変えに行っていた恵理子が戻ってきて瞬く。 「えっ!?絢音ちゃん!?破水したん?!」 「お義姉さん、アタシ…どうしたら、なんだか、お腹も、痛い…」 「ちょ、ちょ、ちょお待ち!!待ちや!先生ととーちゃんに連絡、あああかん!病院内携帯禁止やった!とにかくナースコール!!押して!早よ!」 如何に熟練の看護師であっても、身内の事となると話は別なのか、オロオロしながら病室を飛び出していく恵理子の指示に従い、絢音はナースコールを押す。 「棗です。なんか、破水したみたいで…お願いできますか?」 ズキズキと生理痛に似た痛みをお腹に感じながら、脳裏にフッと、藤次の顔が思い浮かび、首のネックレスを握りしめる。 「藤次さん…」 * 「!」 ベキッと、シャープペンの先が折れたので、藤次はボタンを押して芯を繰り出し、何事もなかったかのように、書類の下書きを再開する。 すると、急にポケットのスマホが鳴ったので、藤次はペンを置いてスマホの画面を見やる。 「なんや?姉ちゃん?予定日…まだやろ。」 何か入院手続きに不備があったのかと思いながら電話を取った瞬間、みるみる目を見開き、身体が小刻みに震える。 「検事…?どうかしました?」 「する。」 「は?」 「ワシ、早退する。京極ちゃん、あと…任せた。」 そう言って、真っ青な顔で立ち上がるものだから、佐保子は慌てて彼に駆け寄る。 「そんな顔色で一体、第一、この後重要な案件が…検事がずっと、寝る間を惜しんで証拠固めした被告人の…」 「絢音が、破水した…行かな。ワシ、約束したんや。側におるて。せやから…」 「でも検事…」 ふと、スーツに留められた検察官の証に目をやる。 紅色の旭日に菊の白い花弁と金色の葉があしらわれたバッジ。 その形が霜と日差しの組合せに似ていることから、厳正な検事の職務とその理想像とが相まって「秋霜烈日(しゅうそうれつじつ)のバッジ」と呼ばれている、検察官の証。 「秋霜烈日」とは、秋におりる霜と夏の厳しい日差しのことで、刑罰や志操の厳しさにたとえられている、重みのあるバッジ。 これを付けてる以上、自分は法の番人である検察官。 けど… 「(藤次さん…)」 頭の中で、絢音が呼んでいる。 行きたい。今すぐ。そう思い、止める佐保子を振り切り、胸のバッジをむしり取る。 「処分は何でも甘んじて受ける。部長が聞いてきたらそう言って…ほな、あと…頼むわ。」 「検事!!」 何か言いたげな佐保子を残して、ドアを開けようとした時だった。 「なんだ棗か。出るのか?」 「楢山…良かった。渡りに船や!!なあ、次の聴取、引き受けてくれんか?!」 「次って、お前聴取ほっぽり投げて、どこへ行く気だ。」 「絢音が破水したんや!!予定日4日後やのに、急に来たて電話あって、せやからワシ…」 「楢山検事も止めて下さい!!検事、気持ちは分かりますが、今日の案件、不起訴か起訴かの瀬戸際なんですよ?!検事が心血注いで、ずっと追いかけてきた案件じゃないですか!なのに…」 「そんなんどうでもエエ!!絢音に、アイツにもしもの事あったら、ワシ…ワシ…」 「棗…」 胸を見ると、秋霜烈日の…検事の証がない。 自分がどう言おうとも、もう…この男は腹を決めている。 ならば同僚として、いや、友として、男として、してやれる事は、一つだけ。 「分かった。行けよ。部長には俺が言っておく。その上での処分は、甘んじて受けろよ?」 「楢山…ありがとう!京極ちゃん!詳しい話、楢山にしたって!」 「は、はい!検事、あの…これ…」 「!」 佐保子の手にあったのは、床に捨て置いた秋霜烈日のバッジと、小さな安産祈願の御守り。 「戌の日に、敷地神社…わら天神様の所でもらってきました。どうか、奥様を、支えて上げて下さい。」 その言葉に、藤次は薄く笑い、彼女の手の中のものを受け取り、頭を軽く撫でる。 「ありがとう。あと、頼むな?相棒さん?」 「はい!」 頷く佐保子を一瞥して、藤次は部屋を飛び出し階段を駆け下り地検を出ると、運良く客待ちの空車タクシーを見つける。 「すんません!大至急、花藤病院までお願いします!!」 タクシーの扉が開き乗り込むと、直ぐに車が動き始めたので、藤次はそっと、スマホの待ち受け…付き合って間もない頃に撮った絢音の写真を見やる。 「(嫌ですよ。そんな、写真だなんて…)」  「(まあまあ、折角…ちゃんと付き合ってから初めてのデートなんやから、ええやろ?一枚くらい。宝物にしたいんや。)」 「(でも、私…笑うの苦手だから…)」 「(せやったらホラ、これ…)」 「(えっ?!)」 あの時は、ただ笑って欲しくて、その一心で、戸惑う彼女の眼前で、桜の枝を手折り、贈った。 「(やだ…怒られますよ?)」 そう言ってはにかんだ顔が可愛くて、シャッターを切ったあの日から、一体どれだけ、彼女の笑顔を見てきて、その度に満たされて、幸せな気持ちを募らせて、愛に変えてきたのだろう。 言葉にならない想いが胸に去来し、早く早くと、心の中で運転手を叱咤する。 「もし、お前になんかあったら、ワシも、すぐ逝くからな?」 小さな画面の中の彼女にそう伝えて、佐保子にもらった御守りを握りしめ、藤次を乗せたタクシーは、花藤病院へ続く小径へと入った。
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