第1話

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「……15時か。」  件の万引き事件から数日経ったある日。藤次は図書館にいた。  あの一件以来、妙に絢音が気になって、何度かこの図書館内をウロウロして、彼女がいるのを探してみたりして、職員に怪しまれたりしていたが、他に彼女と出会う術を知らないので、今日もまた、児童コーナー付近の学習スペースで新聞を読みながら、絢音が来るのを待っていた。  自分でもアホらしいとは思っていた。  それに大体、会って何を話せば良いと言うのだ。  災難でしたね。とでも言えば良いのか。  今後は気をつけて……と説教でもするのか。  分からない。だけどもう一度、彼女に会いたい。  その一心だった。  時計の針を見てため息をつく。  今日も無駄足だったか。  そう思い、席から立ち上がって新聞を元の位置に戻しに行った時だった。 「あ……」  ばったりと鉢合わせた二人。  互いに驚きを隠せない表情で、しばらく見つめ合っていたが、ゆっくりと絢音が口を開く。 「この間は、どうも…」 「いや。別にワシは、何もしとらんし……」  その言葉に、絢音は僅かに眉を下げる。 「そんなことないです。私の言葉信じて、無実を証明してくれましたよね?ありがとうございます。」 「ま、まあ……仕事やし。」 「そうですよね。でも、うれしかったです。信じてもらえて。」 「うん……それより、すごい荷物やな。」 「ああ。これですか?」  言って、絢音は手にしていた大きめのマイバックを示す。 「子供達に読み聞かせするための本です。童話とか……」 「読み聞かせ……保育士さんなんか?」 「いえそんな!趣味というか、ボランティアです。ここの図書館で、月2回、金曜日に。」  そう言って、絢音は肩掛け鞄から1枚のチラシを取り出し、藤次に手渡す。 「良かったら聞きに来て下さい。大した事してませんが……」 「あ、ああ。分かった……寄らせてもらうわ。」 「じゃあ……」  軽く会釈して、その場を去って行く絢音の後ろ姿を見つめる藤次の胸が、僅かに高鳴る。  これで終わりじゃない。 少なくとも月2回、金曜日、ここにくれば必ず彼女に会える。  その事実が無性に嬉しくて、藤次は口元がにやけるのを必死に堪えながら、図書館を後にした。 * それからと言うもの、月2回金曜日になると、藤次は仕事の合間を縫っては、図書館に通うようになった。  同席していた親子連れからは、最初は異質な目で見られたが、子供好きで面倒見の良かった藤次の性格が功を奏し、徐々にその輪に打ち解けていった。  絢音とも、最初のうちはギクシャクしていたが、回を重ねる毎に話が弾むようになり、桜の花の蕾が膨らむ頃には、たまにだが、共に食事に行くような関係になっていた。 「せやけど、いい友達止まりやねん……」  ある日の京都地検。  喫煙ルームで一服する楢山賢太郎は、同期の腐れ縁がこぼした言葉に関心がないのか、スケジュール帳を開く。 「食事に行ってもなー。なんかあかんねん。そーゆー空気にならんねん。四六時中絵本か猫の話ばっかり。なあ、なにがあかんのやろ。」 「さあな。」  そっけない同期の言葉に打ちのめされるように、藤次は喫煙ルームのカウンターに寄りかかる。 「なんかなぁ……あんねん。独特っちゅーか、ワシに男になって欲しないオーラっちゅーか……せやから、なんか、言えんくて……」  何度か食事をしている内に、何となく気づいてきた、彼女の心の壁。  ふと、この間の食事のやり取りが思い出される。 「(ええよ。男なんやから、奢るん当たり前やん?遠慮しなや。)」 「(そう言う訳にはいきません。いつも通り割り勘にしましょ?棗さん。)」  本気を出して口説いて見ようと、少し高いレストランに誘ったのに、彼女は表情一つ変えず、食事代の半分を自分に渡し、送ると食い下がる自分を突っぱねて、一人で帰って行った。  友達としてなら良いけど、異性としてなら受け入れない。  そんな空気が、彼女にはあった。  それからも、やれ花束だアクセサリーだと、思い付く限りのプレゼントをしてみたが、花は枯れては可哀想だと受け取ってくれたが、アクセサリー類は自分には似合わないと拒まれ、他にどうやれば絢音に気持ちを伝えられるのか分からなくて、正直手詰まりを感じていた。  いつもなら、金さえチラつかせれば女は落ちると思っていたのに…  いや…  いたではないか。  金ではなく、心を通わせて愛した女が…  絢音と同じ、白い肌をした、福岡に置いてきた女が…  あの時感じた気持ちと同じものが、密かに確かに、胸の中に燻っている。  でも、この気持ちを認めて吐き出し、本気になったら、45の身空、嫌でも意識してしまう結婚の2文字に怯える日々が、始まってしまう。  ふと、脳裏に、冷たい目をして吐き捨てるように自分に言い放つ父親の言葉が浮かぶ。 「(お前のような出来損ない、産まれてこなければ良かったんだ…)」 「(ごめんね…藤次…)」  涙を流し、自分に詫びる母。  愛情というものなどかけらもなかった、冷え切った関係の両親。  歪んだ家庭。  そんな環境で育った自分が、果たして誰かを幸せにすることなどできるのか…  他人を愛することができるのか。  けど、なら、この思いは… 「…どうせいゆうねん。ホンマに…」    そう言って項垂れる藤次に、賢太郎は小さくため息を吐き、手帳に挟んでいたある物を彼に差し出す。 「ムードを演出するのも、たまには良いんじゃないか?」 「なんやこれ。映画?」  差し出されたのは、巷のカップル達に話題の恋愛映画のペアチケットだった。 「ベタだが、喜ぶんじゃないか?」 「ベタやな。ホンマ……」  毒付きながらも、藤次はそのチケットを受け取った。  取り敢えず、今は彼女の笑顔が見たい。  その気持ちだけで良いではないか。  そう言い聞かせて、藤次は絢音に連絡した。
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