第8話

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「絢音!!!」 病室の扉を開け、転がるように室内に入ると、姉恵理子と、汗ばんだ顔をしてぐっと痛みを堪える絢音がいた。 「姉ちゃん、絢音は?!」 「まだ分娩第1期…開口期や。さっきまで10分間隔で20~30秒続いていた痛みが、2~3分間隔で約60秒間継続するようになってきた。子宮口の開きが最大なるんは約10㎝程度。そこまで開き、陣痛がピークに達したら分娩室や。絢音ちゃんは初産やから、12時間が、勝負やろな。」 「そうか…長いな。なんか、出来ることあるか?」 「せやったら、腰さすったり。赤ちゃんの頭が降りてくると、いきみたくなるんや。せやけど、子宮口が完全に開き、いきんでよいと指示があるまでは、できるだけ我慢せんとあかんねや。せやから、その痛み紛らわすために、さすったり。姉ちゃん、下の自販機でお水買うてくるさかい。」 「分かった…」 頷き、恵理子と場所を変わると、藤次は絢音のか細い腰をさする。 「藤次さん…来て、くれたの?」 「うん。楢山に事情話して、引き継ぎしてきた。痛いんやろ?あんまり喋らんと、楽にしとき。」 「いい…喋ってる方が、気が、紛れる……」 言って、絢音が手を差し伸べてきたので、藤次はしっかりと、その手を握る。 「これから、もっと、痛くなるって。耐えられる、かな?」 「大丈夫や。せや、京極ちゃんから、御守り預かってん。安産。持っとき。」 「うん…」 頷いた瞬間、激しい陣痛が絢音を襲い、ギュウッと、握られた手に信じられない力がこもる。 痛いと感じたが、絢音はこれ以上の痛みに耐えているのだと自分を叱咤し、藤次は手を離さず絢音を見守る。 「お父さん……お母さん………」 うわ言のように呟く絢音。 今この場に最もいてほしい相手は、自分ではなく。両親なのか… しかし、今ここに存在して、支えてやれるのは、自分しかいない。 そう思い、藤次は絢音に呼びかける。 「大丈夫や。絶対、側を離れへん!!どんな事があっても、ワシはお前の側におる!!せやから、ワシ等の子、無事に産んでくれ!!」 「藤次…さん……言って……いつも、みたいに、好きやって……愛…してるって……」 「そんなん、何遍でも、声枯れるまで言うたる!!好きや!!ワシは、お前が好きや!!誰よりも、何よりも、好きや!!……愛してる……もう、どんな言葉並べても足りんくらい、お前が好きや…好きで好きで、どうにかなりそうや。助けてくれ…」 「うれ…しい…あたしの、ために、そこまで、狂ってくれて……アタシも、あなたが、好き……愛してる……だから、あなたとの、赤ちゃん……絶対、産むから……だから、見てて……」 「うん…」 頷く藤次の後ろ、部屋の入り口でやり取りを聞いていた恵理子は、手にしていた水の入った袋をドアノブに掛けると、静かに扉を閉め、外の長椅子に腰掛け、袂の懐中時計を見やる。 「19時…破水らしき体液の排出から9時間、もう少しやね…」 * ところが、初産婦の場合10~12時間が平均とされる子宮口の全開時間を過ぎても、絢音のそこは全開にはならなかった。 あくまでも平均だからと恵理子や助産師に言われたが、藤次は段々不安になってきて、けれど、自分にできるのはこれしかないと、ただひたすら、痛みと闘う絢音に寄り添っていた。 「とーちゃん。もう、夜中の3時やで?姉ちゃん代わるから、少し休み?夕飯も、食べてへんにゃろ?」 「ええんや。絢音かて、寝ずに頑張っとんや。それより、コーヒー買うて来て。ブラック。喉渇いた。」 「空きっ腹でそんなん飲んだら、身体壊すえ?水にし。冷えたんあるから。」 「……分かったわ。おおきに。」 言って、恵理子に蓋を開けてもらい、片手でそれを飲み下すと、冷たい液体が、空っぽの胃に沁み渡り、キュッと、身が引き締まる。 そうして手を握りしめ見守っていると、扉がノックされ、担当医の中山が現れる。 「あぁ…先生、お世話んなってます。」 「いやいや。出来れば、このまま僕の出番…ない方が良いんだけどね…」 言って、中山はベッドの上の絢音を見やる。 「陣痛…少し間隔が長くなってない?」 「あ、はい…何だか、最初の頃みたいな…」 「うんうん。」 頷き、中山は藤次を見やる。 「別室でお話しましょうか?」 「あ。ハイ…」 促され、恵理子にその場を任せると、藤次は中山に付き従い別室に入る。 「奥様は、今は続発性微弱陣痛の状態です。はじめは標準的な陣痛だったのに、お産の途中から微弱な陣痛になってしまう状態をいいます。と言っても、微弱陣痛が見られ分娩の進行が遅れていても、奥様の健康状態に異常がなければ、我々としては奥様と赤ちゃんの様子を注意深く確認しつつそのままお産の進行を見守るつもりです。奥様には、可能であれば水分や食事をとり、眠れるなら眠って、赤ちゃんを産むための体力を蓄えてもらっておきます。」 「はい…」 「しかし、奥様の疲労が激しかったり、子宮内感染の可能性がある場合などでは、子宮収縮薬(陣痛促進薬)を使用し、陣痛を強めることも、検討しなければなりません。更に言えば、奥様の骨盤が通常より狭かったり、巨大児分娩などの、お産が困難あるいは長引きそうなケースでは、帝王切開を検討せねばなりません。お産が長引くと、奥様や赤ちゃんの消耗が激しくなるからです。」 「帝王切開…切る言うことですか?お腹…」 「まあ、あくまで最終手段としての話です。30時間以上かかるケースもありますし、奥様も初産です。先ずは様子を見て、必要であれば、薬を使用させて頂きますね。」 「分かりました。よろしくお願いします。」 * 別室から出て、中山と別れるなり、スマホが微振動したので見やると、度会部長の文字。 どんな処分でも甘んじて受ける。そう腹を括り、電話を取る。 「棗です。」 「夜分にごめんなさいね。産まれたって一報がないから、仲人としては、気になっちゃって…」 「まだ、お産の最中です。陣痛が弱くなってるとの事で、経過観察の状態です。」 「あらぁ。それは大変ね。まあ、今は医療も進歩しているし、大丈夫よ。頑張んなさい。」 「ありがとうございます。」 「…で。ここまでが、仲人としての言葉。これから先は、言わなくても、分かるわね?」 「はい。無断の早退と自己判断による職務の引き継ぎに対する処分、お願いします。」 「腹は括りましたって口調ね。なら、言うわね。」 ごくりと、藤次は生唾を飲み込む。 「今日から1週間謹慎。お家でしっかり、反省なさいな。」 「…はい。」 「それだけよ。」 「えっ!?でも、僕…無断で…」 「あら、まだ欲しいの?謹慎なんて建前よ。産まれてくる赤ちゃんと絢音さんと3人、1週間、ゆっくり過ごしなさいな。」 「けど…」 「いいのよ。柏木君が倒れた時、アタシも貴方に無理を強いたし、おあいこさま。その代わり、謹慎開けたら、みっちり働いてもらうからね。藤次クン。」 「…分かりました。処分、謹んでお受けします。ありがとうございます。部長…」 「良い子ね。藤次クン…」 * そうして朝を迎え、朝食が配膳されて来たので、藤次はそれを受け取り、絢音の隣に座る。 「メシ来たで?先生が、食べれるなら食べて体力つけ言うてたから、食おう?牛乳とかから、行ってみるか?」 「うん…」 頷き、絢音は藤次の手から紙パックの牛乳を取り、口へ運ぶ。 「ん。食えるな。ほんなら次、お粥さん行こか。」 「うん………っっ!!!」 陣痛が走り、肩で息をする絢音の腰をさすりながら、藤次は囁く。 「また間隔短うなってきたな。助産師さん、呼んでこようか?」 「うん…なんか、寝巻き濡れて来た…また、破水してるかも…」 「ホンマか?!姉ちゃん!」 「うん!助産師さん、呼んでくる!!」 そう言って部屋を後にする恵理子。やや待って、若い助産師が、絢音の陰部を見やる。 「うん。子宮口…ようやく全開しましたね。ほんなら車椅子持って来ますさかい、分娩室、行きましょ?お父さんは、どないします?」 その問いに、藤次はキュッと、握った拳に力を込める。 「勿論、立ち会います。」 …5月16日。 朝から五月雨の降る、肌寒い日だった…
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